葬送のフリーレンを見た感想など。時間と生命
つい昨日葬送のフリーレンを見終わった。個人的な感想を軽く書いていきたいと思う。
時間感覚について
まず、面白いと感じたのは時間感覚だ。様々な種族が出てくるアニメは沢山あるが、勿論種族ごとに寿命がありそこで生活している。
その寿命、時間感覚を考えると生活のリアリティを感じてくる。
普通に考えたら当たり前のことなのだが、当たり前だからこそあまり気にしていなかった。
アニメの冒頭では、50年後に流星群をまた見ようとか、フリーレンはこの先長い人生が・・など時間の流れを認識させるような始まり方であった。
エルフの寿命は大体2、3000年。他の種族と関わる際の時間認識のズレは当然起こることとなる。
2、3000年はかなり長い。そのような寿命があれば、どう捉えて生きていくことになるのか気になる限りだ。
フリーレンは別に昼間までには起きてるし、寝る時間は人間と同じくらい。まぁそれも人間の側から考えている訳だが、そこは仕方がないとする。
仮に同じような生活形態で2、3000年が圧縮されないのだとすれば、とてつもない時間だ。
もはや元々、人生を長い旅のように捉えて生きているのだろうか。
そう考えると人間の寿命というのは限られたものだ、。人間も旅のように生きるのも不可能だとは言わない。
しかし、いわゆる理想を考えていけば20代、30代とあれこれ将来設計を立てることになるし、旅は別の分かれ道となってしまうからだ。
生き急ぐのは疲れるが、生き急がないとあっという間に過ぎ去ったりする。それが人の一生だ、、。
人間と魔術
フランメは魔法の世界を変えた。人間の誰もが魔法を使える時代にし、その後の世界は人間が越えるだろうとされる時代になる。
そしてその時代はフリーレンの弟子、フェルンの時代から始まるという流れがあった。
まぁ種族がいくつか存在していると、いつも人類は最弱だ、みたいなそんな扱いを僕はイメージしていた。肉体的にも寿命的にも。
魔術という特徴性もあるのかもしれないが、それでも人間の魔術が発展を遂げた時代の入口にきた訳である。
少なくとも人類の寿命は他種族よりは短いのであって、限られた時間だ。
やはり文化の発展や継承に関しては人間の優れた点であると感じた。
生きる意味と生きた意味
勇者一行として十分すぎる程の偉業を成し遂げている訳だが、作中では銅像を建てたり地道に自分の生きた証を残していくような描写が見られる。
生きる意味と生きた意味は少し違う。個人的に生きる意味は、身体や心が求めていることをすることで達成を目指す、生きた意味は4んだ後の話だ。
別に4んだ後まで気にしなくていいんじゃない?といった疑問も出るだろう。
だが、歴史を見るように広く世界の流れを見ると、僕たち自身も歴史のある一点に立たされているのだ。
生きた意味というのは、自分の肉体が無くなった後に自分の生きた跡があることだ。
それは名や物が残ること。そして誰かに語られることだ。
自分は直接的に知らない人に自分の名前が出るというのは生きた意味としては大成功だと思う。存在がなくても存在したことが語られる訳だからね、。
生きる意味→生きた意味
この矢印の段階で死を迎える訳だが、生きた意味が満たせなかった時、人は2回目の死を迎える。
作中では誰かに語られなければ人は死ぬんだよ。と述べられていたが(正しいセリフかは分からん)、個人的に気に入ったのは語られなければというところだ。
一緒に過ごした人が誰かに語る、それで生きた意味は見出せる。誰かの記憶、思考に残っていることが重要だという訳だ。
フリーレンはアウラと2度目の戦いをする際、以前の戦い方と違うことを指摘された。
それに対し、ヒンメルに怒られたから今こうして戦っているのだと返す。
この時、アウラはもうヒンメルは死んでるじゃない(いないから怒られないじゃない)といった発言をした。そこでフリーレンが怒りを露わにするシーンが印象的だ。
時間の流れで蓄積されてきた考えや経験、他者から背負った思いを踏み躙られたことに対する怒りだろう。
フリーレンの心の中にヒンメルは生きているのだと。魔族はそのような思考がないのだとして、滅ぼすべきだと力強い言葉をかけたのでしょう。
まとめ
葬送のフリーレンは時間の流れと生命について、身近だけども、見逃してしまいそうになることがテーマだと感じた。
寿命が長いと言っても、フリーレンは仲間と過ごした10年を鮮明に覚えているし、ゼーリエも気まぐれに取った弟子のことを鮮明に覚えている。
そこは生きる者の責任といったら言葉が重いけど、、悲しいからという言葉が正しいだろう。
人は死んでも誰かの心に生きているし、自分が死んでも世界は続く。自分が死んだら誰かの心で生きる。
そうして世界は今日も続いているのだろう。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?