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希望

しばらくあると油断して、 気づけば最終日。 NEW PURE + 節分のタイミングでの開催、 死後くん個展 『内なる恵方』 へ  観覧に備え、 焼き芋を食べてから、 お店へ向かう。 去年のいまごろ ぽてとで見た 『ぽんちうた』 の原画展は、 何度も頭をぶるぶるとふらないと、 絵の中で横たわる熊の目に、 自分の目もなってしまう、
独次元への同調によって、 この世界とされるものからの剥離が、 ふとしたら起きるような、 予期していない戸惑いが、 自分にあやしく、 おかしく生じる、 体験だった。

父とサンさんの死から、 あらゆるほとんどのこと、 それまでのような興味がなくなり、 どんな芸術作品にも、 ほとんど針が振れなくなった。  作品に触れること、 そこでの体験を求める思いが、 すっかりなくなくなり、 もうこの先も、 きっとずっとと思うほど、 芸術への興味や関心、 うまれてこない状態が、 長く続いて、 それがあたりまえになっていた。 (父のことがあるまでは、 文化と芸術は、 自分をつくる、 3大栄養素のひとつなくらい、 思っていたのに。 )

そういった 自覚があるなかで、 ぽてとで見た、 死後くんの絵は、 日常ではかきけされてしまう、 モスキート音みたい、 奇妙な領域からの振動、 独特の入り口を抜けると広がる、 創造と循環からなる、 有機的なリアリティー。
ぼへーんと、 大きな衝撃を受けた。 展示された作品を目にすること、 それは、
聞こえない音を感知すること、 見ることのない世界に触れられる、 そのよろこびを、 思い出した。  ぽんちうたの世界、 そこにいる生き物の存在は、 ひからびきっていた感性、 その枯渇の原因、 詰まりにあった、 何かが砕けて、 溶け落ちる、 その機会となった、 ほんとう大きな、 衝撃だった。

また原画が見れる、 そのよろこびと、 不思議な、 林へ入るような構えをもって
2度目となる、 今回は恵方巻きから臨む、 死後くんのたくさんの絵は

ぽんちうたの異世界感とは、 またぜんぜんに違う、 そのとき感じたものは、 独立した領域なら、 今日感じたものは、 まざりあいにじみでる、 マーブル感

具材たっぷりの カレーやシチューから匂い立つもの、 それが絵によって、 香りも 味わいも、 違っても、 そのどこか共通している、 小麦粉み。 それは行き詰まりなのか、 朦朧なのか、 ひとのこころの、 定まりのなさ、 自分にとっての恵方を感知するセンサーの消失による、 起きる惑わしや、 幻想快楽、  そんな、 前回の展示の印象とはさーっと異なる、 でも前とおなじに生々しい、 どこか硬質な、 リアリティー。 特に、 右側にならぶ作品に感じる。

左側の作品は、 その生々しさを忘れる、 清涼な、 現実味あるまぼろしがあって、 頭がぶるぶるとなることは、 なかったけど、 ならぶ作品、 そのなかで、 じっとは見ること躊躇が生じ、 目ではさっとしか見ないまま、 こころはひきつけられたのは、 黒い木枠のなかにある、 絵のない絵 タイトルは、 『内なる恵方』
その一枚の作品が、 入り口のキャプションに書かれていた言葉とつながり
『内なる恵方』 展、 空間をつつむ祈り、  ぽうぽうと灯る、 希望を思った。

以前、 見えないなにかに願いを求めたら、 それは 『テネット』 で返ってきたみたい、 今日みた展示は、 作品は、 作家さんにもお会いできて、 そのひとからも、 来られていた、 お客さんからも、 自分がうにょうにょにもがく、 カンダタだとしたら、 今日のこの機会、 出会いというのは、 テネットにつぐ、 くもの糸だった。  最初の衝撃からゆけば、 セカンドインパクトなくらい、 脱したかったものからの破壊を、 死後くんの展示、 起こしてくれた。

『内なる恵方』 展の作品、 ツイッターインスタグラムで見ることができ
これからの展示の案内も、 そちらでされておられます。 もしもお近く、 作品目にする機会があれば、 ぜひ原画で  また、 SNSでも、 絵本でも。

詰まりが溶けて、 作品に触れるよろこびが、 自分にもどり
そうなって、 触れれないでいたことの意味も、 溶けて わかった。

広がり、 深まり、 美しさ、 つかむことのできない思いに触れる、 よろこびを
感じること、 受け取ることを、 閉じるとき  それは、 感受性の磨滅からではない
痛みや傷や、 喪失の、 悲しみ、 苦しみ  疲れや怒り、 忙しさ 感じることの、 余裕がないほど、 感受性はより過敏に、 繊細に、 高まり、 強まるのかもしれない。
だから、 閉じないととなるのかもしれないで、 それでも、 そのときの必要を、
流し込んでくれるのが、 芸術、 個々の、 そのひとの、 表現なのかもしれない。

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