からっぽの私、からっぽの毎日
後期から休学している。
研究は一旦ストップした。
バイトのシフトは今月も入っていないし、
旅に出る予定もキャンセルした。
しばらく実家に帰ったり友達に会う予定もない。
残ったのは通院の予定だけ。
ついに、スケジュール帳がほぼ真っ白になった。
生まれてこのかた初めてかもしれない。
今日も何も予定がない。
元気だから買い物に行きたい。
それくらい。
「学生」や「従業員」であること。
誰かにとっての「家族」や「友達」であること。
「優等生」や「良い子」であること。
今、全部、ない。
私以外の何者でも、ない。
私はからっぽになった。
今、一瞬一瞬が新鮮に感じられる。
この感覚に衝撃を覚えている。
、、、しかしだ。
よく考えてみたら、状況としては今までと何も変わっていない。
前期は体調が悪くて1ヶ月くらいゼミに行っていない時期もあったし、バイトも完全に休んでいた。
元気な日はイベントに行く時もあったけど、無理な時はキャンセルした。
スケジュール帳が埋まっていようがいまいが、結局、同じだ。
これまでとは何も変わりないけど、今はからっぽに感じる。
それならば、そもそも、私はからっぽだったのかもしれない。
ただ、「私は何者かである」と思い込んでいただけなのかもしれない。
本当は私以外の何者でもないのに。
今日も私はからっぽだ。
これまでも、これからも、からっぽだ。
今、そんなことを感じています。
ちょうどこの前、『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』を買いました。
まだ全部は読んでいないんですけど、この本では「からっぽ」について書かれていました。
この世界は夢だとか、幻だとか、フィクションだとか。
自分とはそもそもからっぽだとか。
からっぽだからこそ満たされるとか。
「まさに、これやん!」とびっくりしながら読んでいます。
私が感じていることを、大昔の哲学者が言語化してくれているかのようです。
東洋哲学、いいかも。
しばらく「からっぽ」を味わおうと思います。
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