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三昧の副産物

 日本の動画配信サービス「Prime Video」で、2025年から制限付きながら広告を表示するとのニュースを見た。
 この半年間、私の「Prime Video」三昧加減は凄まじく、時間を溶かすとはまさにコレと思うほどだった。社会人に成りたての頃、一度だけパチンコへ行って500円が秒速で溶けて驚いたが、その感覚が近い。

 そんな過ごし方を繰り返す中で、発見もあった。
 前に引用した「寝ながら学べる構造主義」(内田 樹 著/文春新書)の表現を借りるなら、

”「ある心的過程から構造的に眼を逸らし続けている」という抑圧のバイアス”

に囚われている自分が、折りにつけ登場した。まぁ、やらなきゃいけないことを延々後回しにするとか、そのときに観たくないものは、自分でウォッチリストに入れていてさえ目にしたくないという、それくらいなのだが、、、、

 これまでも、インプット型のエンタメとアウトプット型のエンタメがあることを漠然と感じていた。根拠は特に説明できないけれども、自分がイメージを創出していくアウトプット型エンタメは、体調がよくないとしんどい。
 能楽や落語などはアウトプット型、TVドラマやアニメ、映画、歌舞伎などはインプット型といえるか。
 インプット型の中でも、泣かせるシーンなどは、演者さんによってアウトプット型寄りの演技・インプット型に振り切った演技などあるかもしれない。小津安二郎監督の「東京物語」は、ラジオドラマや紙芝居、朗読に近いアウトプット型なのではと思う。

 2年間勤めた身分不相応の職場は、まるで私だけ禁足地に迷い込んだかのようだった。退職してからのこの半年間は、それでもいろいろ関わりが続いていて身動きがとれなくなってしまいつらいこともあったが、今後を見据える貴重な機会になった。Prime Videoさん、ありがとう!

 が、いよいよ追い詰められたときは、小説を読む。生産的なエネルギーの着火は、インプット型エンタメでは救われない部分。個人の感想です。

 子育てにおいては、願望としては、子ども本人がアウトプットできるように接していきたかった。過去形。私は、これからも過干渉と没交渉の両極端を行き来し続けてしまうのだろう。