光のスペクトラム
No.16
2018年にインドに行きました。
上の写真は、そのときに泊まった、バラナシのホテルの中です。
柔らかい光が幻想的でした。
10代の終わりから20代前半の頃、何だかとてもインドに惹かれて、インドに行きたいと思っていました。特に行きたい場所があったわけでもなく、見たいものがあったわけでも無く、強いて言えば、インド料理や、インド綿の服が好きで、その当時出会う人もインドが好きな人が多かったくらいなのですが、何かが私をインドに惹きつけていました。
仕事の打ち合わせも、毎回デザイナーさんの好きな、インド料理のお店だったり、妹尾河童さんの「河童がのぞいたインド」を興味深く読んでいたり、あれは何だったんだろう?と今でも思うけれど、「何だかインドに行ってみたい。」
そんな風に強く感じていた数年がありました。
その20代前半、友人が二人でインドに行くというので、私も行きたいと思ったのですが、タイミングがどうも合わず、、、。
帰ってきた友人から、電車の中の通路で寝た話や、レストランでは葉っぱと水が出てきて、その水で葉っぱを洗えって言われたの!そしたらその上にカレーが乗せられて、、、とか、面白い話をたくさん聞きました。一緒に行けなくてとても残念だったと思った記憶があります。
でも、その数年が過ぎたら、そんなことも忘れて、私は南の島ばかりを旅するようになっていました。ニューカレドニア、サイパン、コサムイ、バリ島、ハワイ、屋久島、沖縄、小笠原、、、、。
ヨガの先生になったというのに、インドに修行に行きたいとは全く思わず、インドで修行している先生に習っているんだし、私にとってはこの先生がヨガの先生。そう思っていたので、周りのヨギ、ヨギーニ仲間達がインドに練習に行くと聞いても、あの20代の時の「インドに行きたい!」という強い感情は、不思議なほど全然湧いてきませんでした。インド熱は20代の数年で去ったのか?
それが、今から2年前、突然インドに行くことになりました。
私のヨガクラスに来られていた生徒さんの一人が、ご主人の転勤でインドに行った後です。ある日「千帆さんインドに来ませんか?」とメールが来ました。
すると、なんと私は何も迷わず「あ〜行きたい、行きます!」と答えていたのです。
自分のことながら面白い反応です。
滞在したのは、デリーの近くのグルーガオンというところでしたが、3泊ほどバラナシにみんな(その家の家族6人と、ご主人の親戚一人と私)で行きました。。
バラナシには、マザーテレサの施設もあります。ガンジス川のほとりでは、亡くなった人が燃やされ、灰が流されていく、そのすぐ横では、小学生たちが水泳帽を被って水泳教室をしていたり、川に浸かりながらずっとお祈りをしているおじさんがいたり、石鹸で体を洗っている人がいたり、若い男性たちが楽しそうにじゃれあっていたり、床屋さんがお客さんの髭を剃っていたり(もちろん外で)、美しい色とりどりのサリーを干しているおばさんがいたり、「お金をちょうだい」と、笑顔で寄ってくる子供達、牛もいたるところに立っている。そして、ガイドではないと言いながら話し続けるインド人たち。みんなおしゃべりが好き。笑えてきました。
亡くなった人が燃やされている煙のすぐ前で、みんな生き生きと笑顔で生きている。子供達の目は輝いているし。
そして毎晩、舞台のような祭壇では、6人ほどの司祭が、歌いながら?踊りながら?色とりどりの電飾の輝く中で祈りを捧げていました。スピーカー付きで爆音です。
それを見ようと(祈ろうとですね)陸からも川からもたくさんの人たちが集まってお祈りをしている。
私はホテルの船で川から見たのですが、船を漕いでいたホテルの従業員の男性に聞いてみました。
「これ、毎日やってるの?何に祈ってるのですか?」
その人は、誇らしげに笑顔でこう言いました。
「はい、毎晩やっています。聖なるガンジスに祈っています!」
(赤いパンツの人が私です。不思議だ〜と思いながらじっと見ている。↑)
帰ってきてから、娘にこう言いました。
「あなたは無いと思うけど、友達が死にたいって言ったら、死ぬ気があるなら、一度インドのバラナシに行ってからにするといいって、ママが言ってたって言ってあげて」と。
お世話になったその生徒さんの一番上の息子さん(その時中学生)に「インドどう?」と聞いてみたのですが、彼はこう言いました。「ずっと住みたいとは思わないけど、面白い。ありえないようなことばかりが起こる。」そして彼にも聞かれました。「インド好き?」
私はこう答えました。
「好きかどうかはまだわからない、でもやっぱり面白いって思う。」と。
なぜ今日、インド旅の話を書いたかというと、ヨガクラスで生徒さんたちに色々なお話をする中で、どう伝えたらいいのかなと思ったことがあり、一番上の写真、インドのホテルの中ですが、柔らかい光と、うっすらとした影を見て、光のスペクトラムで例えてみようと浮かんだからです。
真っ暗でも無いし、真っ白でも無い。
コントラストが醸し出す風景。
これが私たちの今の世界かなと思うのです。
今の時代は、闇から光へとシフトしているから、今はどんどん光が増して行っている。今まで闇だったところに光が当たりはじめ、その本当の姿が現れてくるような、、、そんな感じ。
恐怖心についての例え話で、闇の中では蛇に見えていたものが光を当てたらただのロープだった。という話がありますが、見えないと、いろいろ想像してしまい怖くなる。でも、勇気を出して、ライトを当ててみる。そうやって、私たちは、自分が本当は何なのかを、知り始めていく。(少なくともヨガをするとはそういう方向に行くことなのです)
暗くて、何が何だかよくわからなくて怖がっていたことに光が当たり始めて(気付き始めて)本当は怖いものではなく、過去からの経験で思い込んでいただけだったり、自分のパターン化したものの見方が、そういう風に世界や自分自身を感じさせていた、ということに気づいていく。癒しのプロセスでもある。
どんどん光が増していき、究極に光が広がった時には、すべてが光の中に溶けていく。
私たちは、またひとつになっていく。。。ソース(神)とひとつになっていく。
ひとつ(ソース、神)から生まれ出てきた私たちひとりひとりは、いずれ、全てである大元に戻ってまたひとつになる。
だから実は、私たちの本当の親は、ソース(神)。そして周りのすべての人々は、兄弟姉妹、あるいはクラスメイト。(私はこんな風に生徒さんたちに例えて話します。)
でも、今は、本当の自分を忘れて、ひとつひとつの個人に分離して、この闇と光のコントラストの中で、様々な体験を味わっている私たち。(私の絵本、ちいさなほしのかけら もぜひ読んでいただけると嬉しいです。下にリンクします。)
だから、自分の中にネガティブだと感じる闇を見つけても、怖がることはないのです。究極には、すべての闇とすべての光が、すべて丸ごと自分の中にあるのだから。それが無限というものだから。闇が悪くて光が良い、そういうものではなく、闇と光があるからこの世界が形として現れて見えている。
一番上の写真で言えば、電気を全部消して、窓を全部閉めて、夜に撮影したら、真っ暗闇が映るだけで、何も見えない。逆に写真の編集で、一番明るいスペクトラムに持っていくと、光って真っ白で何も見えない。でも、真ん中あたりに持ってくると、何がそこにあるかがよく見えます。
闇の方に行くか、光の方に行くかは選択の問題で、光のスペクトラムのどちらの方向に進みたいのかという(好み)の問題。
今私がネガティブだと感じていたら、それは、光の少ない黒に近い方のトーンに意識を自分が向けているというだけ。でも自分がネガティブな人間なんだと感じてしまうのが私たち。そうすると苦しくなってしまう。
無限な私の中から、今この時点で現れているのは、ここの部分なんだ、、、そこが見えているんだな。
そんな感じで捉えられたら、少し気が楽になって、視野が広がったりしないでしょうか?
暗いところにフォーカスすると、そこが一番際立って見えてくる。でも、明るい方にフォーカスすると、そちら側が際立って見えてくる。
どちらに意識の矢印を向けるかは自分次第。実はコントロールできる。
人生の舵(コントロールボタン)が、自分の手の中にあったんだ!ということを思い出して、使い方を練習していこうよ。。。それがヨガのプラクティスだったりします。
それを知った上で、アーサナや瞑想をやっていくと、何をやっているのか、腑に落ちていくのではないかと思います。
長くなってしまいました。。。そして、クラスと同じように例え話が多い。。。
言葉って難しい。
では、そろそろ今日はこの辺で。
読んでくださりありがとうございます。
Yoga Contactの周りは、紅葉が美しい季節です。
皇帝ダリアもたくさん咲き続けていますよ。
私は、編み物瞑想中。。。
シャンティ
私の絵本もぜひ読んでみてください↓時々在庫切れになっていますが、随時補充されています。
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