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HSP(ハイリーセンシティブパーソン)✖️クリエイティビティ:社会におけるクリエイティビティの扱いに対して思うこと

典型的な人たちよりも高い感受傾向を持つ方たちを指した言葉:ハイリーセンシティブパーソン(HSP)

HSPに当たる人には、何かしらの生きづらさを感じながら毎日を精一杯過ごしている方もいるでしょう。

しかし彼らの苦しみに焦点が当たる一方で、「HSP傾向がある人はクリエイティブである」そのような意見も多々聞くことがあります。

HSP傾向がある人は多くのアンテナ(触手)を持っている、そう考えると、典型的感受力を持つ人よりも、敏感に物事を感じ取りやすいからこそ自身に入ってくる情報量も多く、他の人が気づきにくいようなさまざまな視点を持っていることも多いでしょうし、また、それをプロセスするために自身と向き合う時間も多くなり、その延長でクリエイティブな活動に惹かれ自らも表現者となる人も多いかと思います。

しかし、実際に、自分の望むクリエイティブな活動を思い切り出来ている人は、どれくらいこの世の中にいるのでしょうか?

そこでこの記事では、社会に対して感じるクリエイティブのあり方について、HSP傾向の人が抱えるジレンマの視点から問題定義してみたいと思います。


クリエイティビティって何?

何かを一から作り出す『創造』を意味するクリエイティビティ。

心理療法のパーソンセンタードアプローチの創始者であるカール・ロジャーズは、人は誰しも、自分の内に生まれたものを広げ、育み、成熟させ、自分を最大限に自分らしく確立させてくれる自己実現を目指す癒力を持っていると説明しています。そして、それは創造力・クリエイティビティに対しても同じように説明することが出来る、と話しています。

また、グラハム・ワラスによると、クリエイティブのプロセスは、自身の内面にあるリソース、経験、自身の置かれた状況が影響しあって、異なる年齢や事情下でさまざまな様子を見せる、と話しており、一般的にクリエイティビティはこれらの段階を辿って実現すると説明しています:

⒈準備期:身体の出来ることを知り操れるようになり、活動のヒントを見つける時
⒉保温期:見つけたアイデアを温めてどう自分の表現を出来るか模索する時
⒊照明期:見つけたアイデアや洞察を実際に活動に再現する時
⒋承認期:自身はもちろん他人にも、自分のアイデアが理解・認められる時

身体の感覚と強くリンクするクリエイティブな活動は、身体全体を動かすダンスや演劇表現を通じて触れることもあれば、身体と視覚をふんだんに使うペインティングなどのアートや、身体と聴覚を意識する楽器演奏に生み出されることも、はたまた味覚や視覚を生かした料理活動もその例外ではないでしょう。

ロジャーズとワラスが話すように、自分のクリエイティブ表現を通じて自他と繋がりを持つことは、昔から共同体を作って他者との愛着を形成しながら生活を繁栄させてきた人間が大きな喜びを感じ癒しを得るための行為です。そのため、クリエイティビティは、誰にでも備わっている大切な機能の一つなのです。

HSPは諸刃の剣

先に述べたように、HSPの傾向のある人で、クリエイティブな活動に惹きつけられる方はとても多いです。

それは、クリエイティビティの段階のステージ1に当たる、情報を汲み取るアンテナが多いというのもそうですし、ステージ2の個人のペースで好きなことを没頭して取り組んでいくことが向いているなど、HSPの特徴がクリエイティビティが起きるプロセスとマッチしている点も大きいと思います。

また、周囲に理解されにくい生きづらさ(ストレッサー)を抱えるからこそ自己治癒力がより強く湧き上がる可能性…ユングの説明するような、人には自身の内面に備わる均衡性を保とうとする力がある、という視点から、HSPとクリエイティビティの相関性を捉える見方もできるかもしれません。

どのような関連性があるにしろ、生きづらさを感じているHSPの方が、自由にクリエイティブに自身を思い存分表現できる環境があれば、どれだけ素晴らしいことでしょうか。

しかしながら、クリエイティブな活動に取り組む上で、特にクリエイティビティのステージ3と4の段階に、大きな精神的負担を経験している人も少なくはありません。それは、HSPの特徴がクリエイティブな内面の方向に強く向かう力を持つ一方で、他人からの影響や外からのストレッサーにも強く向いてしまう、諸刃の剣だからです。


クリエイティブになるには条件がある社会

今、『クリエイティブ』という言葉を聞いて、「いや、自分はクリエイティブじゃないし…」「才能ないし…」「上手くないし…」「恥ずかしいし…」と思った人は、どれぐらいいるでしょうか。

自己に内在する力であるクリエイティブの力が、なぜだかそうは認められない。自分の中には存在しないものだと思わされている。そんな世の中にわたしたちは生きているのです。

表現アーツセラピストのナタリー・ロジャーズは、人がクリエイティブな活動を阻ばれるのには以下のような原因があるのではないかと説明します:

・自身の中に内在する批判
・承認の必要性を感じること
・間違いを恐れること
・予測がつかないことに対して感じる怖さ

小さな頃に表現した『何か』に対して与えられたネガティブな評価やコメントが、心の傷となって、表現には優劣が存在するような、自分には表現者になる資格がないという感覚に陥った人がいるかもしれません。

または、自身が本当に望むものよりも、他人の喜ぶ表現や受け入れられる形に表現の様相を変えていってしまうこともあるかと思います。

自分を体現する、自分を曝け出す行為でもあるクリエイティブ活動だからこそ、拒絶への恐怖などたくさんの気持ちが湧いてくるものの、自分の気持ちを肯定も否定もせず受け入れてくれる受け皿がない。そんな思いから、活動をストップさせてしまう人もいるでしょう。

成果主義な学校や社会環境では、社会全体が何かを基準に優劣をつけ、良し悪しを図る価値観を内在している。そのため、せっかく生まれたクリエイティブの芽は、小さいうちから摘まれてしまう。そんな環境が、多くの人を「自分はクリエイティブではない」と言わせているのだと思います。

HSPの人にとって、これらの外的影響は、典型的な人が感じる以上の威力や衝撃になるのです。

そのため、クリエイティブな活動の場を誰よりも欲しているにも関わらず、一方で、そのクリエイティブ活動への弊害に人一倍敏感になってしまう。そのような自己防衛も働いて、身動きが取れなくなって表現の道を閉ざす方も多く見受けられるように思います。


クリエイティブな活動に踏み出すために必要な条件とは?

そのような状況を打破するために、必要なものとは何なのか?

カール・ロジャーズは、人をクリエイティビな活動に突き動かすために必要なものとは、大きく分けて二つあると説明しています。それは『自分自身に対する条件』と、『自分の外にある条件』

①クリエイティブな活動を実現するために、自分自身が持っている必要がある条件とは?

経験を受け入れていく寛容さ:自分の経験する気持ちや体験を思うまま感じること、それを受け入れていく意思を持つこと。これがあることで、自身の先入観や批判を離れ、物事をあるがままの姿で楽しむことができるようになります。

自分軸で評価をすること:人は他人からの意見にとても敏感です。でも、人がなんと言おうとも、自分はどう思うのか、自身の価値観を基準に自分の体験や経験を評価していく姿勢。これを持つことによって、自分を認め、必要以上の自己批判をすることなく評価していくことが出来るようになります。

②クリエイティブな活動を実現するために、自分のいる環境に必要な条件とは?
心理的な安全:
・個人をあるがままの存在として、唯一無二の価値のある存在として理解してくれる環境
・外的な評価が存在しない無批判の環境
・自身を共感的に理解してくれる環境

心理的な自由さ:例えば、自分が大っ嫌いな人がいた時。その人をすっごく酷く醜く、モンスターのように描いたとしても、すっちゃかめっちゃかにしたとしても、そのような、何かの象徴として表現・再現したものを全て許容してくれるような精神環境があること。学校の先生や親、はたまたセラピストが、そのような表現を許してくれるような自由さがあること。

これらの条件が揃うことで、クリエイティブな活動は、自分にとって本当の意味での自己表現の場となっていきます。それだけクリエイティブな活動とは、まるで心の内を誰かに打ち明けるようなヴァルナラブルな(繊細さと弱さを持つ)行為であり、それを生み出すための温かく寛容な受け皿を必要としています。


社会に対して思うこと

アートセラピストをしていると、嫌になるくらい聞く「わたしはクリエイティブではないので…」という言葉。

これは、大人のみならず、小学生低学年くらいの小さな子供たちですら、口にする言葉です。

誰がこんな小さな子供たちに、このような言葉を言わせているのだろうか…。わたし自身、物心ついた頃からアート制作に居場所を求めていたのもあって、このような発言が、小さな子から発せられるたびに毎度思わずとても悲しくなります。

一方で、自身も、いつの間にか絵の上手さやテクニック、評価に流されて制作をするようになっており、それに気づいてからは、頑張ってその価値観に争うようにしていますが、それがなかなか難しいことを嫌でも実感しています。それぐらい、社会の作り出してきたクリエイティビティに対する価値観というのはしつこく強力なのだと思いました。

この記事では、クリエイティビティが起きる条件について、クリエイティブな活動の場をとても必要としているHSPの方を意識しながら書いてみました。

でも、ここまで書いてみて思ったのは、わたしがこの記事で言いたいことは、HSP傾向の有無に関わらず、自分の表現したいものをありのまま表現出来ない苦しさはどこからきているのか、そして自身の過ごす環境の中で何が変われば、それが可能になるのか。その葛藤に対する提案と、そして、わたしたちが生きる社会の価値観に対して批判の気持ちを持ってみてもいいのではないか、という問題提議のように思います。全ての人に内在するクリエイティブの力を誰が多くの人から摘み取ってしまうのか…そしてそれは何処から来ているのか。今一度考えてみてもいいのかもしれません。

この記事が、自分らしく生きたいけれど生きられない。そう感じながら自分探しをしている方の、クリエイティブな力が生まれるきっかけの一つになれれば幸いです。

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