誹謗中傷や自粛警察に関して思うこと:物事の二面性
ネット内での誹謗中傷に関する悲しいニュースが今日ありました。
人一人に文句を言われるだけでも心が痛むのに、不特定多数からの言葉の暴力に囲まれる生活…想像するだけでも辛いし悲しいです。
僕も日常的にyoutubeやtwitterで動画やツイートに関するコメントを目にしますが、日本と英語圏のコメントの違いに驚きます。
その違いとは賛否とアンチの割合です。
昔に比べると日本でのコメントも良いものが増えている感覚もありますが、
悪質なコメントが本当に目につきます。
しかもその内容が批判や議論の余地のあるものであれば良いのですが、トゲトゲした暴力的な言葉での一方的な人格否定が多いと感じます。
またそういったコメントに真摯に返答する発信者に対しても、多くは議論をせずに自分の意見をぶつけるだけの自己満足的なやりとりをして会話を終わりにしています。
一方英語圏の動画へのコメントは、動画に対する賛否やクリエイターへの感謝・応援が非常に多いです。
もちろん英語圏といっても広いので、全ての国とは断言できませんが多くはそういった印象を受けます。
この違いはどこからくるのでしょうか?
地理学的な点からの国民性の違いと誹謗中傷や自粛警察に関して少し書いてみようと思います。
①島国と大陸文化
日本の勤勉さや協調性、粘り強さやこだわりが世界から賞賛されているのは周知の事実だと思います。
僕も海外に出て日本に帰国する度、日本の文化の繊細さや接客業の方の真面目さには改めて感動します。
諸説ありますが、日本は弥生時代には稲作を取り入れ定住生活を始めていました。
当たり前ですが島国のため土地の大きさは昔からずっと変わらず、基本的に百姓は生まれた村で育ち、その村の秩序と幕府による制度の中で生活してきました。
その村から逃げて生活することはかなり難しく、その場合には川や森でワイルドな生活を選ぶほかありません。
こんな一つの村、そしてこの日本という島から脱出できない状況が、日本の「集団主義 = groupism」を形成してきました。
もちろん侍の高貴な文化も今の日本人に残っていますが、江戸時代の人口の8割は百姓。あなたはそうじゃなかったとして、数的に言えば、日本国民のマジョリティーは百姓です。
この集団主義のいいところは前述した通り、村として生き残るために培った「協調性」や「こだわり・工夫」、農業を行うための「勤勉さ」や「粘り強さ」です。
そして「安定」「年功序列」「貯蓄」などが生活の基本になってきます。
一方大陸文化のヨーロッパは、農耕ではなく狩猟文化です。
即ち獲物を捕るため移動しながら生活してきました。
一つの大陸に多くの種族が住んでいるため、違い種族同士が住みやすさや獲物を争います。
なので同じ場所でも時代によっては違う国になるような歴史が繰り返されました。
なので国という土地を守り、そして広げるためのリーダシップや戦略、革新的なアイディアが重宝されてきました。
国民性は個人主義 = individualism と言います。
なので「個」として主張が集団の中でも重要になってきます。
②物事の二面性
①の説明だけだと日本て本当にいい国だなと思いますよね。
「和を以て貴しとなす」
この言葉の通り社会が平和になると良いのですが...
しかしながら陰陽論にもあるように、物事には常に二面性があります。
ここからは集団主義のもつダークサイドについてです。
集団主義とはいってしまえば、「個」の意見よる「集団」の意見を優先するということです。
なので日本人なら誰しも「空気を読む」という見えない同調圧力の中で生きています。
実は空気を読むって日本では当たり前ですが、海外ではほとんど通じません。
僕もアメリカに5年間住んでましたが、本当にアメリカ人は空気を読めません。というかそもそも読みません。
でもそれには理由があって、人種も多くそれぞれの抱えるバックグラウンドが違うので、空気を読みたくても読めるほどのお互いの共有意識がないのです。
だからこそ、空気ではなく言葉にして主張するのです。
日本は逆に一億総中流なんて言葉もあるほど多くの人が似たようなバックグラウンドを共有しています。
だからこそ空気が読めるのです。
この同調圧力に加え、日本には村社会が生み出した
「村八分」
「出る杭は打たれる」
「長いものには巻かれろ」
という3つの闇を加えると大体今の日本社会の問題の根本が見えてきます。
「村八分」「出る杭は打たれる」という文化により「集団から離れた個」はいじめや批判の標的となります。
僕も中学校の時、ある日を境に全員に無視されるような経験をしましたが日本では結構なあるある話なんじゃないかなと思います。
また「長いものには巻かれろ」という文化からクラス内でいじめが起こっても止めることはできず、自分が標的になりたくないがために加害者になってしまうなんて経験をした人も多いんじゃないでしょうか?
この悪しき国民性と今回の誹謗中傷や自粛警察に共通することは
いじめや批判の対象は「個人の中身」ではなく「集団から離れた個」であり、また議論はなく一方的だということです。
そうです。
極論かもしれませんが、上記の加害者達は個の意見や正しさなど聞いちゃいないのです。
そして現代は「村」という小さな場ではなく、「インターネット」という無限の空間で彼らは「集団から離れた個」を探し、魔女狩りでもするかのように標的を見つけては誹謗中傷を繰り返しています。
不倫、ドラッグ、注目を浴びた芸能人、自粛の中での活動,,,
集団から個として離れたり、秩序を乱すと彼らは正義という大義名分を掲げ否応無しに攻撃してきます。
脳科学者の中野信子氏はネットでのこうした誹謗中傷や炎上現象を「正義中毒」と呼んでいます。
「正義の制裁」を加えるとその人の脳内では快楽中枢が刺激されドーパミンという快楽物質が放出されるそうです。
下記記事参照:
僕の個人的に彼らが嫌なところは、彼らは大義名分を掲げ行動するのに、長いものに巻かれ自分より大きな組織には決して立ち向かわないことです。
彼らは小さな個人店の居酒屋や他県から来た人たちは攻撃するのに、明らかな三密である満員電車や自粛を指示しない大企業の前でその正義を叫んでいるところは見たことがありません。
正直今の日本には不倫やドラッグ以上にひどい政治の腐敗問題はてんこ盛りです。正義を掲げるならもう一度正義の意味をせめて考えてもらいたいものです。
日本の闇が深すぎて話が長くなってしまいましたが、大陸文化の話に戻ります。
個人主義のヨーロッパ諸国は主張に重きを置く文化だと書きました。
一見こっちの方が争いが生まれそうな気がしませんか?
事実、ヨーロッパの歴史は戦争の歴史と呼ばれるくらいずっと国同士の争いは絶えませんでした。
しかしながら、一方的な主張を続けるだけでは争いを生むだけなので、歴史を通し彼らは違う言語や文化の国が隣にある分、議論することで平和を保とうと努力してきました。
議論とは相手と自分の意見を交わすことです。
まず相手の意見や状況を理解し、その上で自分の意見を伝え、お互いの主張の中で合理性のある答えを双方で見つけ出していくプロセスこそが議論の目的です。
論破すること自体がゴールではありません。
欧米での会話や議論って自分が話しをした後、相手は頑なに主張を通そうとせず一度自分の意見を評価してくれることが多いです。
「君のそういった意見もその視点でいえば一理あるけど僕としては〜」
みたいな感じです。
学校や会社で質問をした時も、
「That’s good question!」とか「Good point!」などまず質問に対しての賛否を伝え、本題の答えへと入ります。
一方的に批判をし続けるというのは彼らにとって合理性はなく不毛と考えるため、おそらく動画のコメントもネガティブなものが少ないのかなと思います。
そもそも嫌なら見ないという「個人」の自由が彼らにはあるのです。
嫌でも目に入ってしまう村社会との違いがここにもあるのかなと思います。
③人間の二面性
ここまで島国や大陸という地理的な二面性と国民性の二面性を話しましたが最後は人間の二面性について話したいと思います。
人間は善と悪、両方の側面を持っています。
光があって影があり、影があってこそ光があるように、その2つがあって一つです。
どんなに正義を語り、悪を倒したとしても自分の中から悪が完全になくなることはありません。
この真実に関連する名言と話と曲を紹介して、この記事を終わりにしたいと思います。
Before you point your fingers, make sure your hands are clean.
指をさして人を非難する前に、君のその手が汚れていないかまず確かめてくれ。
僕の大好きなBob Marleyの言葉です。
説明はもはやいらないですよね?笑
では代わりにこの名言をさらにわかりやすくしたキリスト教のヨハネによる福音書の話を一つ。
ある女性が不倫をしたことにより捕まりました。
彼らの時代、不倫(姦通罪)は石打ちの死刑です。
この刑に対しイエスと律法学者が対立します。
その時イエスはこう言いました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」
この言葉の後に石を投げられた人は誰もいませんでした。
もちろん他人に迷惑や危害が加えられないための法律やルールは必要です。
しかしながら、この世界に罪をおかしたことのない人はいませんし、正しさを根拠に人を裁く権利や資格を持つ人なんて本当はいません。
「ならぬことはならぬものです」
という会津の有名な言葉がありますが、このルールの上で得をする人は誰でしょうか? 嫌な思いをする人の数の方が圧倒的に多くないですか?
ルールは多すぎると自分の首まで締めることになります。
グローバル化が進んだ今、正義より寛容さを身につけることが必要な時代な気がします。
もし人々が寛容さを無くし、ルールだけに正しさを見出そうとすれば、社会はガンジーが語ったようになってしまいます。
An eye for eye only ends up making the whole world blind.
「目には目を」では、世界中の人々が盲目になるだけだ。
では、最後の我が国日本から一曲ご紹介させていただきます。
クラムボンとTHA BLUE HERBのill-bossitinoがfeaturingした曲「あかり from Here」という曲のライブ映像です。
加害者 被害者 繰り返しなたらい回しさ
確かに虚しいが虚しいのが世界さ
完璧な人間なんてどこにも1人もいない
皆 善と悪 半分ずつで1人さ
というリリックはまさにその前の3人の名言とリンクすると思います!
未完成なお互いが与え与えられ
顔と顔とを向かい合わせていかなくてはダメだ
のリリック通り、善と悪があるからこそ、その中で葛藤し、人との関わり合いの中で自分を高めていくことが重要だと思います!
最後に誤解が起こらないように記載しますが、誹謗中傷は良くないですが
批判することは悪いことではありません。
しかしながらそれには一方的な主張で終わりにせず、相手へのリスペクトや立場を想像することが必要で、批判するのであれば、その目的はその上で議論をしてよりよい答えを見つけることとするべきです。
キリストの時代から多くの人が訴え続けているメッセージを、より多くの人が理解し生活できたら、世界はもうちょっと平和になるような気がします。
傷つけるつもりがなくても時に相手を傷つけてしまうのが言葉です。
そして放った言葉はいつか自分に返ってきます。
そんなことを意識しながら「言葉」というものについて今一度この時期に考えてみることは非常に良いのではないのでしょうか。
今日はここまでにします。
それではまたよろしくお願いします^^
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