
前日のチケットでコンサート会場に来た老夫婦のこと
今からもう何年も前のこと。
場所は渋谷のNHKホールでした。
開場時間になって、ホールの前にあつまっていた人たちがどんどん会場へと入り始めたとき。
NHKホールの入り口前に、すっと黒塗りのタクシーが止まって、ひとりのおばあさんが降りてきました。
お一人かと思ったら、ちょっとして、杖をついたおじいさんも少し大変そうに降りてきました。
足がお悪いようで、かなりゆっくりとした足取りでした。
奥さんらしきおばあさんの後ろを、杖をつきつき、ホール入口へと入っていらっしゃいます。
「歩くのでさえ大変そうなのに、こうしてコンサート通いを夫婦で続けてらっしゃるんだ」と、当時まだ学生だった私は、すこし感慨にふけりながら、その老夫婦のことを見ていました。
それが、おばあさんが2人ぶんのチケットを会場の係の方に見せる辺りで、何やらちょっとしたトラブルが起きているようでした。
聞こえてきたのは「恐れ入りますが、これは前日の公演のチケットです。今、責任者を呼んできますので、少々お待ちください」という声。
そのコンサートは同じプログラムが前日にも行われていて、どうやら、この老夫婦は日付を勘違いして、一日遅れでコンサート会場へやってきてしまったようでした。
いったい、こういうときはどういう対応がとられるんだろうと興味津々で、私はその行方をずっと見ていました。
責任者らしき人が到着すると、さきほど対応していた若者からチケットを渡されて事情を確認、少ししておばあさんのところへやってきます。
「たいへん恐れ入りますが、こちらのチケットは昨日のコンサートのものでございます。日付をご覧ください。まことに心苦しいのですが、このチケットではご入場いただけません。申し訳ございません」といったような、とても丁寧な説明をして、ただ、それでおしまいでした。
おばあさんは、「そうですか…。日付を間違えちゃうなんて。年をとるというのは嫌なものですね。こちらこそ、お手数をおかけして申し訳ございませんでした」と丁寧にチケットを受け取って、でも、もちろん、とてもがっかりした様子です。
それから、だいぶ遅れてやっと近づいてきたおじいさんに「このチケットは昨日のものなんですって。私たち、日付を間違えちゃったんですよ」と説明なさっていました。
おじいさんは事情がなかなか呑み込めないようで、すこしのあいだ立ち尽くしたあと、「…そうか。そうだったのか。」と。
こちらも肩を落として、それから、またゆっくり、おふたりで雑踏のなかへ来たばかりの道を引き返していらっしゃいました。
偶然に見かけたあの光景が忘れられず、いまでも鮮明に思い出されます。

なぜしばしば思い出すのかといったら、つまりは、あの対応がどうも私は腑に落ちなかったからでしょう。
たとえ末席であっても、あの老夫婦を会場にいれてほしかったですし、きっとそうなると思って、やりとりをずっと見ていたのですが、結果はちがいました。
ホールの方もとても丁寧に対応していたので、失礼はなかったですし、すべては日付をまちがえたことが原因ではあるんですが。
でも、コンサートというのは、そもそも、音楽を聴かせたい人がいて、そこへ音楽を聴きたい人が集まる、ただそれだけのことでしょう。
はっきりと覚えているのですが、あの日のコンサートは完売にはなっておらず、当日券も販売されていました。
超法規的措置というか、例外的な対応として、あの老夫婦をどこかの席へ案内してほしかった。
そうすれば、あの老夫婦は音楽を聴けたわけですし、主催者側は音楽を聴かせることができたわけで、それでいて、誰ひとり困ることもないわけです。
それに、そうした特別な対応をされたら、人はいつまでも忘れないものです。
きっとまた、そのコンサートへ足を運ぼうという気にもなるでしょう。

そうして、ふと思い出したのが、三大テノールとして有名だった、イタリアのルチアーノ・パヴァロッティのこと。
海外では、ステージ上の空いている空間に観客をのせて、臨時の客席をつくってしまうというのが結構あります。
私が映像で見たパヴァロッティのあるリサイタルでも、ステージ上にはパヴァロッティとピアノの後方に、数列のお客さんが座っていました。
あの位置からだと、リサイタルのあいだじゅう、パヴァロッティの歌をずっと背中から聴いていることになるので、おそらくいちばん安い価格の席になるのでしょう。
それが、コンサート終盤、アンコールの何曲目かで、1番の歌詞を歌い終えたパヴァロッティは、突然くるっとひるがえって、2番の歌詞を舞台後方のお客さんへ向かって歌いはじめました。
末席が、最前列になった瞬間でした。
時間にして、数十秒か1分か。
でも、あの数十秒か1分のことを、きっと、あの会場にいたみんなが、生涯忘れられないでしょう。
映像で見ただけの私ですら感動して、今もこうして忘れられないんですから。
歌が終わった瞬間、会場全体から、パヴァロッティの心遣いをたたえる大歓声がわき起こった光景も、とても美しかった。
そうした何か幸せな驚きが、あの老夫婦に起きていたらと。
もう「今は昔」のことなのに、忘れられない思い出です。
※こちらは、以前、自分のブログ(ARTONE MAGアートーンマグ)で公開していた文章ですが、敬老の日にちなんでnoteに再掲させていただきました。

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