【古代ローマ人物伝】ロムルス(Romulus)
基本情報
名前:ロムルス
生年:紀元前771年頃(推定)
死年:紀元前717年頃(推定)
母親:レア・シルウィア
父親:マルス(戦の農耕の神)
弟:レムス
妻:ヘルシリア
出自:アルバ・ロンガ(?)
ロムルスはローマの創設者および初代王とされる伝説上の人物。数々の事業や実績を残したと伝えられています(英語の「Rome」を「ロゥム」と発音するように、「ローマ」という名前は彼の名前からとったものだとされています)。
ロムルスはラティウム地方にあった都市アルバ・ロンガで、双子の弟レムスと共に生まれました。しかし、生まれて間もなくして王位継承争いに巻き込まれ、追放されたあげくテヴェレ川に捨てられてしまいます。
2人は奇跡的にも狼に救出され、その後、羊飼いファウストゥルスの家族のもとで育てられました。
成長後、ロムルスとレムスはアルバ・ロンガを離れ、テベレ川のほとりに新しい都市を建設することを決意しました。
その後、建設する都市の場所(パラティーノの丘かアヴェンティーノの丘か)やどちらが王になるかで意見が対立し、鳥占いによって最終的にロムルスに軍配が上がりました。こうして新都の王となったロムルスは、外敵の侵入に備え都市の中心部(パラティーノの丘)に防御用の溝や壁を築きます。そしてその境界線は「ポメリウム」と呼ばれ、ポメリウムの内側を聖なる場所と定めました。
しかし、ここで事件が起きます。
鳥占いの判定に不満だったレムスがポメリウムを飛び越え、ロムルスに侮辱的な言葉を吐き捨てたのです。これに怒り狂ったロムルスは、18年間共に育ったレムスを殺害。この「歴史上もっとも有名な兄弟喧嘩」により、ロムルスはローマの単独支配者となりました。
紀元前753年4月21日(年号は「七五三」で1発で覚えられます)がローマの建国日とされ、これは「パリア」と呼ばれる春の祭りと同日にあたります。この日付はローマの伝統的な祝祭日としても大切にされ、ロムルスの功績を称える1つの象徴となりました。
ローマの初代王として即位した後、ロムルス行った事業は主に以下の3つです。
異次元な少子化対策
法制度と統治システムの構築
軍事体制の整備
では、順番に見ていきましょう。
ロムルスの異次元な少子化対策
ロムルスが建設した都市ローマは当初3000人ほどのラテン人が暮らしていました。都市を発展させていくためには新たな住民が必要と考えたロムルスは、様々な方法で人口増加政策を行いました。
まず、都市内に「避難所(アシュールム)」を設け、近隣からの移住者や犯罪者や逃亡者でも受け入れることで、人口を増やしました。これにより、ローマはさまざまな背景を持つ人々が集まる活気ある都市となりました。
しかし、ローマには男性ばかりが多く、若い独身女性の数が不足していたため人口の自然増加が難しい状況でした。
そこでロムルスは隣に住むサビーニ族の女性を誘拐し、自分たちの妻にしよういうキチガイな、ではなく大胆な政策を講じたのです。
ロムルスたちは近隣のサビーニ族を祭りに招待し、その場でサビニの女性たちを略奪。結婚相手として迎えました。
当然ですが、この出来事はサビーニ人との戦争を引き起こします。ただ、最終的には和解に至り、サビーニ族とローマ人が同盟を結ぶことになりました。
<元老院>の創設
ロムルスは都市国家としてのローマを統治するための法制度や政治体制の整備にも尽力しました。
まず、都市を構成する住民を複数の氏族に分け、さらに氏族を単位として百人隊を編成します(百人隊を体系的に整備したのは6代目の王セルウィウス・トゥッリウスといわれています)。この「百人隊」制度は、住民の行政的・軍事的な組織構造として機能し、戦時には兵士として集められるなど都市の防衛にも役立ちました。
そして、ロムルスが行った事業でもっとも重要なのが「元老院(セナトゥス)」を創設したことでしょう。
ロムルスはローマにいる各氏族(血縁集団)のリーダーを100人を集め、彼らを元老院の議員にしました。彼らは「パトレス」(父たち)と呼ばれ、彼らの子孫はのちに「パトリキ」(貴族階級)と呼ばれるようになります。
元老院はローマの統治において王を補佐し、都市の意思決定を行う重要な機関としての役割を担いました。この元老院制度は、共和政ローマでも中心的な機関として引き継がれることになり、ロムルスが残した政治体制の重要性が見て取れます。
さらに、ロムルスは犯罪や争いの抑制を図るための法律を定め、都市内での秩序を保つために努力しました。彼の法制度は原始的なものでしたが、殺人や窃盗などの犯罪に対して罰則を設けることで、市民生活の安全を守り、都市としての安定を図りました。
軍事体制の整備
ロムルスはローマの軍事体制を確立するため、多くの改革を行いました。彼は自らの軍隊を「レギオ」と呼び、これが後のローマ軍団の基礎となりました。
兵士は主に百人隊から募られ、都市防衛や戦争において重要な役割を果たしました。この組織化された軍事体制は、ローマが周辺の都市国家や部族に対抗する上で大きな力となりす。
ロムルスは指導者として戦場に立つことも多く、戦いにおいてローマの強さを示しました。特に、サビーニ人との和解後は周囲の都市国家や部族との関係を改善し、連携を強化しました。これにより、ローマは周囲の都市国家と共存しながらも自らの領土を拡大し、影響力を強めることができたのです。
ロムルスの死後、彼は神格化され、「クイリーヌス」という神として崇められるようになりました。伝説によれば、ロムルスは嵐の日に突如として姿を消し、天に昇ったとされます。この神話的な伝承は、ロムルスの偉大さを示すものとして後世に語り継がれ、ローマの創建者としての神聖な存在として崇拝されました。
ロムルスの行った事業や実績は、ローマが都市国家として成り立つための基盤を築いた重要なものでした。ローマの建設、人口増加政策、法制度と統治システムの構築、軍事体制の整備など、彼の行動は後のローマの繁栄と発展に直接的に影響を与えました。
彼の伝説は神話的な側面も多いものの、ローマが力強く成長する礎を築いた存在として、歴史の中で称えられ続けています。