2007年テクノロジーの旅…それから
トーマス・フリードマンの著書『遅刻してくれてありがとう 常識が通じない時代の生き方』は、2007年に何がおきたのかといったことや、ムーアの法則(半導体最大手の米インテルの共同創業者の一人であるゴードン・ムーア氏が1965年米「Electronics」誌で発表した半導体技術の進歩についての経験則で「半導体回路の集積密度は1年半~2年で2倍となる」という法則)を軸に話が始まります。
前半では、AIが人間の知能を超えるといわれている技術的特異点・シンギュラリティへ至る道への解説もなされていきます。
この『遅刻してくれてありがとう』の中に、「2007年に一体何が起きたのか?」という項があります。
2007年前後に何がおこったのか?
2007年前後の年はテクノロジーの歴史にとって重要な年と位置づけられています。
以下に書籍からの抜粋をまとめると、いまメジャーになっているサービステクノロジーがこの2007前後に始動していることがわかります。
これを見みて、ふと思ったのですが、日本でmixiで開始されたが、2004年なので、意外にも? mixiのスタートはちょと早い感じがしますね。
などなど…
こうしてみるとやはり、テクノロジーがいかに人に新しい体験や利便性をあたえるというがわかりますし、テクノロジーはその手段であるということがよくわかります。
アラブの春とその後のテクノロジー
そして、こういったテクノロジーの話は、2010年から2012年の間におこったいわゆる「アラブの春」の裏の側面、Web・テクノロジーの限界を考えさせられる展開へ流れていきます。
Facebookなどを活用して「アラブの春」の主導的立場にいた、ゴムニさんという人のエピソードが引用された後に、こう続きます。ちょっと長いですが…引用させてもらいます。
僕は保守的な論争を呼び起こそうなんてもちろん思っていません。
テクノロジーで実現されるソーシャルメディアのコミュニケーションには、限界もあるということです。
2022年現在のウクライナ危機しかり、すこし前の中国の強権による、香港の問題ともたぶん無関係ではありません。ロシアがわりと早くFacebookなどへの接続を遮断したのもこういう歴史的経緯が念頭にあります。
圧制者というのはもともと自分のサスビナリティを考えるもので、個人的には、古くて新しい考え方だと僕は思っています。
ある意味、ロシアのプーチン大統領は、追い込まれて、「自分の権力・帝国」のサスティナビリティを考えたということもいえなくもありません…もはや諸刃の剣だと個人的には思いますが。
Webの多様性や自由な場は歓迎すべきであるし、圧制者がそれをコントロールしようとするのは根本的に間違っていると思います。
アラブの春から10年ほど経つけど、でも、そこには、テクノロジーの限界や課題がまだまだある。それが現実なのかもしれません。
なにも「アラブの春」のような「革命」といわれるものでなくても、このコロナ禍で、人と人のコミュニケーション上の問題を痛感している人もいるかもしれません。
では「常識が通じない時代の生き方」はどうなっていくの?
しかし、こうした革命のような話を伏線としながら、後半では一転して、一見フリードマンおじさんのノスタルジーかと思われる生い立ちの昔話が始まります。
著者本人も書きはじめのなかで、単なるノスタルジーではないとことわりをいれていますが、当然、単なるノスタルジーでは終わりません!
なぜこの本が『遅刻してくれてありがとう』なのか、しっかりと謎解きのように収束させていく書きっぷりは、さすがピュリッツァー賞作家という力量を感じます。
このオチは、テクノロジーがすべてを解決できるわけではないという、ちょっとアナログ思考に引っ張られていることがたびたびある私にも、ある意味やっぱりそうだよねっ! と、溜飲を下げるオチになるのですが、希望を感じさてくれる話でもあります。
そして、よりよいテクノロジノーの活用のヒントがいっぱい詰まっていると思います。上記で引用した「インターネットは「接続する能力を改善したが、政治組織、文化、リーダーシップの代わりにはならない」という部分は裏を返せばメリットなわけですから。
『遅刻してくれてありがとう』は、上下巻で900ページに迫る分量ですが、進化のスピードが速まる世界でどういきていくのか、また今回のウクライナ危機などを念頭におくとまた違った見方もできるかもしれません。
もっと新しい繋がり、信頼とコミュニティを築けますように。