インテリジェンスとはなんだろう
言語の習得とインテリジェンスについての記事
慶子さんへ
6月3日のブログ『Vigorous と Energetic』の慶子さんの話を読んで
頭の中で整理されたことがあったので、それを書いてみることにしました。
『インテリジェンスとはなにか』
私がこの問いを持ち始めたのは
息子がインターナショナルスクールに通い始め
下記の内容の記事を読んでからです。
(1)母語をしっかりと持ち続けて第二外国語を学び使用する生徒
(2)母語が中途半端な状態で、第二外国語を学び使用する生徒
この両者を比べると前者のほうがインテリジェンスが高いという研究結果が出ました。
※例えば、日本人とのハーフでも、子ども時代から英語が母語で、日本語が第二外国語の生徒も(1)に含まれます。
※(2)の例として挙がっていたのは…
母語で話すのは流ちょうだが、読み書きは不自由。
第二外国語は、話せるが、読み書きには難あり、という、どちらも中途半端になっているという状況です。
更に、バイリンガルと言われる、二言語を自由に話せて、読み書きも可能
という生徒は、高いインテリジェンスを身に着ける可能性があり
なんと痴ほう症にもなりにくい、という結果も出ていました。
ただ、これは並大抵のことではなく
実際には本人と親も、かなりの努力が必要なものだということは
私自身、生徒たちを観ていても
そして腕白坊主の息子二人を観ていても感じることです。
もちろん、この研究結果が、どれだけの母体数があるものなのか
そしてどこまで正しいのか、私にはよくわかりません。
ただ、ここでいう『インテリジェンス』って、なんだろうなあと
心がざわざわしました。
インテリジェンスがあるとは
何を指しているのだろうか
インテリジェンスとはどういうものなのでしょうか。
この言葉の意味するところはとてつもなく広いとは思います。
指標の一つは、IBのスコアが高いということなのでしょう。
※IB教育について
でもそれをIBをスコアを上げるためにはどうすればいいのか
という答え合わせ的な考え方をするのではなく
そもそも『インテリジェンスって、なんだろう』
ということを考えてみたいのです。
確かに、この方ってなんて素敵なんだろう!と
インテリジェンスを感じる方がいます。
例えば、このブログでいつも質問に答えてくださっている
日本を代表する通訳の慶子さんは
お会いした時から、そのたたずまいや、話し方、その存在感が
インテリジェンスに溢れていました。
その慶子さんとお会いするきっかけをくださった
私がコーチングの師と仰ぐ本間正人先生も
ザクザク出てくる豊富な知識、知の巨人であると共に
とてもチャーミングで魅力的な方で
目を見張るようなインテリジェンスを感じます。
『読みたいことを、書けばいい』という
(最高に面白かった!堪能しました)
本の著者である田中泰延さんからも
気になることを調べ尽くすという貪欲な姿勢に心から尊敬の念を抱きますし
冗談やユーモアの中にも、唸るようなインテリジェンスを感じます。
(他にもいっぱいいますが、きりがないのでここまでにしておきます)
でもそれは知識がある、ということ
必ずしもイコールではないように思うのです。
知識がある=インテリジェンスがある ではない
知識という言葉が掴んでいる領域と
インテリジェンス(知性?)という言葉が掴んでいる領域は
重なってはいると思うのですけれど。
もちろん、そもそも何かを知りたいという意欲が全然ない人
好奇心や興味が薄い人からインテリジェンスを感じるのは
難しいかもしれません。
でも、知識が豊富だったら無条件に
その人からインテリジェンスを感じるか、というと
それも違う気がするのです。
インテリジェンスとは自分の言葉で話す力
話をもとに戻すと
インテリジェンスがある、ということは
特に、最初の記事に書かれていた
母語が失われることによって
消えゆくかもしれないと脅してくる文脈の中で
『インテリジェンス』が示していることは
自分の頭で考え、自分の言葉で話す力、なのかなと思いました。
自分の言葉でなければ
言葉の向こう側へは行けない
言語を獲得しきれておらず、自分の言葉にできないと
言葉の向こう側へ行けない(見えない)
ということなのかなと考えました。
例えば、私の英語で、普段あまり使ったの事のない表現を
借り物のように使っても
誰もインテリジェンスを感じてはくれないでしょう。
それよりは、とてもシンプルな、簡単な言葉であっても
オリジナルの体験を、私がよく理解している言葉で話したほうが
まだ、相手は私が見えている世界を垣間見て
(インテリジェンスには程遠いかもしれませんが)
少なくとも、言葉の先にある世界を共有することができると思います。
自分が話していることを、自分でもよく分かっている
理解している、ということは
案外難しいことなんじゃないかなと、思うのです。
良くわからなくて使っている言葉って、私だけかもしれないけれど
結構ありますしね…。
言葉が共通認識のツールから
思考する道具へと進化したとき
たとえば、子どもたちは言葉を覚えると
それをすぐに使おうとします。
使っているうちに使い方を覚えます。
この使い方を覚えるというのは
他の人がこの言葉をどういう風に使っているのか
という、共通認識が、実感としてわかる、ということです。
具体的には、えーその使い方をしたら変だよ、ということが
理由は説明できないけれどもわかる、という状態です。
でもこの状態は、まだ、言葉が思考の道具にはなり得ず
考えが深まるのには難しい状態なのではないかなと思います。
言葉の向こう側にある世界が見えてきたとき
言葉はただの記号になる
その言葉が、私にとってどのような意味を持つのか
ということが『わかる』ためには
この言葉を使い倒していくうちに
その言葉の守備範囲というか
この言葉が所属しているテーマというものが立ち上がり
もやーっとしていたものが、くっきりと
言葉の向こう側にある世界が見えてきたときに
その手前にある言葉が
それはまるで道路標識のように見えてきたとき
なのではないかと思うのです。
言葉は、一見、知性的なものに思えるかもしれないけれど
これは本当は記号にすぎません。
言葉が掴める範囲は非常に小さいです。
この国の言葉ではAというものを、あちらの国ではBという、おしまい。
というものでは、やっぱりありませんよね。
インテリジェンスは言葉にではなく
姿勢に宿るのではないか
言葉=言葉の指し示すもの+巨大な人類の貯蔵庫 なので
インテリジェンスとは、言葉に宿るものではなく
この言葉というものの限界を感じ
この頼りないものを不甲斐なく思いながら
なんとか言葉や、そのほかのことを駆使して
相手と繋がろうとしたり、分かり合おうとする
その姿勢に宿るものなのではないかと思うのです。
実感や経験が伴う言葉が響く
そしてそれを実現するためには
自分の血肉となっている言葉が必要です。
実感のない言葉は、悲しいかな、全然響かないから。
後ろにその人の経験や思いといった貯蔵庫を持たない言葉は
言っていることは理解できても
言葉の後ろにあるその人のことがよく見えてこないから
『だから、なに?』
という感じになっちゃって
伝えようとしている物語が理解できないで終わってしまいます。
とはいえ、突き詰めて言えば、精魂込めてコミュニケーションを取っても
理解できることは、実は少ないのが寂しいところ。
どんなに愛していても、他者である以上
丸ごと理解することは不可能で
タッチできるところは限られています。
(そして自分自身だってどこまで理解できているかわかりませぬ…)
だからこそ面白いとも言えるし、最後まで寂しさは残ります。
地平線のかなたまで、本当は一人きりであるのだけれども
時々重なり合うこともあって
(もしかしたらそれは幻想かもしれないけれど)
『そのハナシは、わかるよ』ということがあります。
私も持っているよ、アレだよね!
そう、アレだよ!
いや、もちろんアレじゃ言い尽くせないけど
コレとソレじゃなくて、アレの奥にありそうなやつだよね!
と言い合える相手がいるというのは、とっても幸せなことであります。
また話が拡散してしまいました。
本当のことを知りたいと奮闘するその姿勢に
インテリジェンスが宿るのではないだろうか
私がこの話を始めたのは、前回のブログ↓
↑この中で慶子さんが書いてくださった
『メモを取りながら、これは意味を理解しているかな、英語・日本語で言い換えられるかな、と確認』のところで
慶子さんが、一つ一つの言葉について
『自分はこの言葉を本当にわかっているのだろうか』という姿勢で
調べたり、考えたりしている話を読んで、ぶるぶるっとしたからです。
慶子さんは、そのように言葉と対峙しているのだな…
いや、慶子さんだからこそ、そうしているのだな、と思ったら
やっぱりなんて素敵なんだろう!!!と思って、ぶるぶるっとしたのです。
他者という知らないことだらけの宝庫に
心を開き、耳をすます
学び続けるという終わりなき旅の中で
『もっと知りたい』
『分からないことがまだまだたくさんあるのだ』と思っている
目のキラキラって本当に素敵ですよね。
子どもは子どものキラキラが
若い人には、その時の躍動感もあって
それぞれの季節で大いに素敵なのだけれど
歳を重ねた人のそれはまた格別に
より一層、美しいなと感じます。
というのは、先日、64歳の女性(現役の看護婦さん)と
オンラインの講座でご一緒して、その目の輝きたるや
ひれ伏したいほど!本当に素敵でした。
その方の話も面白いのですが、すごく聞き上手で。
他者という知らないことだらけの宝庫に
少しでも分かりたいという気持ちで
好奇心たっぷりで心を開き、耳をすましている人に
私はしなやかで強いインテリジェンスを感じ
本当に素敵だなぁと感動します。
人の話を聴くとき、より一層
インテリジェンスは発動する
そして、更に言えば
インテリジェンスは、人の話を本気で理解しようとする
聞き役のときのほうが
より一層強く発動するものですね。
この人がどのような心持ちで聴いてくれていて
どれくらい理解してくれているのか
実は、話し手にはすぐにわかってしまいますから。
書きながら、自分の中で、もっと深めていきたいところが
くっきりはっきり見えてきた気がします。
それはたぶん言葉にすると
素敵な人が、なぜそんなに素敵なのか、ってことなのですが
(ごめんなさい、曖昧で)
もちろんこの答えは、インテリジェンスだけではないし
この話でインテリジェンスのすべてを表すことはできないし
そもそもこれは私の個人的な見解によるものです。
そして話そのものも、あちこち出かけてしまいましたが
私が慶子さんのことを毎回素敵だなあと思う理由を
また一つ、ここにも見つけたのでした。
長くなってしまいましたが
最後まで読んでくださってありがとうございます。
今日も素敵な一日をお過ごしください♡
いつも愛と感謝を込めて!!!
藍子 拝