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王道を行くアメリカの画家:ジュリアン・ウィアー

王道を行くアメリカの画家:ジュリアン・ウィアー(Julian Alden Weir)

ジュリアン・オールデン・ウィアー(Julian Alden Weir,1852-1919/アメリカの画家・版画家-印象主義)
アメリカの印象主義の画家。また、アメリカの芸術家たちの集団である “The Ten”の創設メンバー(1897年)だ。(当時のアート組織に不満を持つ)
オールデン・ウィアーの農場の牧歌的な生活は、都市である喧騒のニューヨーク市内は、耐えられない状況だったのだろう。従来からのアメリカアート界、そして、モダニスト、アシュカンスクール(アシュカン派)たちと立ち位置が異なるのだ。

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(cc) Julian Alden Weir

略歴- Julian Alden Weir
1852年、ニューヨークに生まれる。
父や兄のジョン・ファーガソン・ウィアー(John Ferguson Weir,1841-1926/イェール美術学校の初代学長)も画家だった。
ジュリアン・オールデン・ウィアーは、幼少期には、父親(陸軍士官学校-美術教授)から美術教育を受けておる、その後、17歳でナショナル・アカデミー・オブ・デザイン(National Academy of Design)で絵画を学んだ。
1873年、ヨーロッパに留学し、パリでエコール・デ・ボザール(パリ国立高等美術学校/École des Beaux-Arts)、そして、ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme, 1824-1904/仏-画家・彫刻家-オリエント描写)のもとで学ぶ。まさに当時の正統派だ。
1877年、アメリカに帰国し、ニューヨークを拠点に活動する。
米国芸術家協会(Society of American Artists)の創立メンバー、また、1882年には会長になる。
1883年以降、クーパー・ユニオン (学際視点のスクール/The Cooper Union for the Advancement of Science and Art)で教え、後にアート・スチューデンツ・リーグ(The Art Students League of New York)で教えている。

その1883年は、彼の学生であった、アンナ・ベイカーと結婚しており、ニューヨークの住居とコネチカットの農場(ブランチビル農場とスタジオ)を往来する生活を始めている。自然との接触を求めていると言う事だろう。そこでは、印象主義の風景が描かれている。
この1880-1890年代は、フランス印象派と、オリエント、そして、日本の文化に、影響を受けた風景画へアプローチしている時期だ。
1888年、ジュリアン・オールデン・ウィアーの作品は、メトロポリタン美術館に、1889年のパリ万国博覧会にも出展された。

1892年、妻アンナ・ベイカーは1892年に突然亡くなる(出産による合併症)が、ウィアーは同年、姉妹のエラ・ベイカーと再婚し、自然の豊かな、その地に居住している。それは、今までの家庭とその周辺の世界を大切に、気心の知れた家族と継続したかったのかも知れない、そして、3人の子女もおり、妹のエラのやさしい気持ちがあったのだろう・・・

アンナベイカーウィアー(1862-1892) 

(cc)ジュリアン・ウィアーと妻アンナ・ベイカー、その家族(犬も可愛い)

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(cc) 妻のアンナ・ベイカー

エラベイカーウィアー 

(cc) 後の妻-エラ・ベイカー(アンナ・ベイカーの妹で、旅行家)

1897年、“The Ten”の創設メンバーとなった。それは、印象主義に対する古典主義とロマン主義的リアリズムの強調に、対して、同年、1897年末にアメリカ芸術家協会を去る。
そして、The Tenには、ウィアーの最期までの20年間、展示している。
また、後継に対する態度も凛としたものだった・・例えば、
ジョセフ・ピアソンは、ウィアーに私的に学び、その後、ペンシルベニア美術アカデミーのインストタラクターになっている。

1912年、ウィアーはアメリカの画家と彫刻家協会の初代会長に選ばれた。しかし、いわゆるモダニストたちのアーモリー・ショー(Armory Show-1913)の後援を受けており、賛否両論の中、1年後に辞任している。
1915年より、ウィアーは、ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン(National Academy of Design)の校長(1915-1917)でもあり、1916年から1919年に亡くなるまでの間にアメリカ美術委員会の委員だった。

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(cc) The Ten

(註)“The Ten”のメンバー写真(いずれコラムに致します)
(後列 r-):ウィリアム・メリット・チェイス、フランク・W・ベンソン、エドモンド・ターベル、トーマス・W・デューイング、ジョセフ・デキャンプ、(前列 r-):エドワード・シモンズ、ウィラード・メトカルフ、チャイルド・ハッサム、ジュリアン・オールデン・ウィアー、ロバート・リード。


(追記)この当時のアメリカのアート世界には、多様性と混迷を極めるが、最後まで、自身の理念とスタイルを崩してはいないのだ。言葉で言うとかんたんな事のように感じるが、ほぼ、当時のアメリカアート界の王道を歩んでいる人物だ。
考えてみれば、だからこそ、その「イメージと文化」という、立ち位置にふさわしい人物なのだろう。
ただ、このまさに王道を走った、ウィアーにとっても、見えない部分で、右往曲折があったことは、略歴からも見えることだ、いつの時代も、創始者には、途轍(とてつも)ない苦難が伴うものだ。



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