画家片岡球子-先駆者の苦悩と克服
片岡球子(かたおか たまこ、1905 - 2008)日本画家。
従来の日本画にない大胆な画面構成、鮮やかなであり従来と異なる色使いから、当初の評価は様々だった。ただ、先駆者は、誰でもそう言った苦悩するものだろう。
そして、片岡球子は、自身の信念に従った創作を続け、やがて従来の日本画の概念を揺るがすような力強い表現を確立した。
面構(つらがまえ)シリーズ、そして、富士山シリーズの評価は高く定着した。
当時、院展の先輩にあたる小林古径(こばやしこけい-日本画家)からの著名なアドバイスは「ゲテモノと本物は紙一重だ、絵を絶対に変えてはいけない」深い理解者もいたという事だ。
日本芸術院会員、文化功労者・文化勲章受章者。北海道札幌市出身。
(c)片岡球子
905年、札幌市に生まれる、時は、明治38年だ。
1922年、北海道庁立札幌高等女学校師範科卒業。
1926年、女子美術専門学校(旧制専門学校であり、現在:女子美術大学)日本画科高等科卒業。
1926年、女子美術専門学校卒業。の横浜市大岡尋常高等小学校(現在:横浜市立大岡小学校)に勤務しながら、創作を続ける。
1930年、第17回院展に「枇杷」で初入選する。研究会員となる。
1933年、院展にも入選する。
ただ、その後は、落選つづきだった。
1939年、第26回院展に「緑陰」が入選し院友に推挙される。そして、以後は毎回入選するようになる。
1945年、院展「祈祷の僧」-大観賞 このあたりの表情片岡球子から、後の作品傾向につながる。
1955年、女子美術大学日本画科専任講師
1960年、女子美術大学助教授
1965年、女子美術大学教授となる。
1966年、愛知県立芸術大学が開校、日本画科主任教授となる。
1973年、愛知県立芸術大学、客員教授。
1976年、勲三等瑞宝章を受章。
1982年、裸婦の「ポーズ」シリーズ。助六の揚巻の打掛の墨絵も手がける。
1982年、日本芸術院会員。
1986年、文化功労者。
1989年、文化勲章を受章。女性画家は、上村松園、小倉遊亀と3人目だった。それからも、100歳を迎えて病(脳梗塞)に倒れたが、療養に努めながら描き続けた。どこか、オキーフに似ていないだろうか。
2008年、病(急性心不全)のため藤沢市で死去、なんと103歳だった。叙従三位。
Fig.「枇杷」1930年
Fig.「祈祷の僧」1945年、院展-大観賞 このあたりの表情片岡球子から、後の作品傾向につながる。
(c)片岡球子
Fig.片岡球子
(追記)私見だが、亡くなった後、片岡球子の作品をめぐって、画商が取り巻くのは違和感があるが、絵画の世界はそういうものなのだろう。
価値とは何か、金銭的なものか、いや、片岡球子の表象からでるアウラ(ベンヤミンの言う)のようなものか?
もう、一言、申し上げると、現代の方だ、周囲のスタッフの方々もグローバルに発表して欲しかったと言うこだ。