(今日のART)黄蜀葵(トロロアオイ):日本画家-土田麦僊
黄蜀葵(トロロアオイ/1932年)足立美術館蔵
昭和7年(1932) 152.0×69.5 cm-土田麦僊(つちだ ばくせん)
(註)トロロアオイ(黄蜀葵、学名:Abelmoschus manihot )
アオイ科の一年草。東アジア原産。オクラに似た花をから花オクラとも言われる。また、 トロロアオイから採取された粘液は、和紙作り、蕎麦のつなぎ、蒲鉾、そして、漢方薬の成形など使われている。
土田麦僊(つちだ ばくせん/土田金二、明治20年-昭和11年/ 1887- 1936年/日本画家)
土田麦僊(つちだ ばくせん)は、ポスト印象派のルノワールやゴーギャンに傾倒して、伝統的な日本画に西洋絵画の重厚なマチエールや合理的な空間把握、幾何学的な構図などを取り込み、新たな絵画の創造を目指した日本画家だ。
略歴とアートワーク
明治20年(1887年)、佐渡市新穂の農家の三男として生まれる。
明治37年(1904年)、竹内栖鳳(たけうち せいほう、1864-1942/近代日本画の先駆者-京都画壇)に弟子となる。
明治44年(1911年)、京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)卒業。
また、同年、小野竹喬(おの ちっきょう、1889- 1979/近現代日本画)を代表する日本画家と共に前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)を結成している。黒猫会(シアノアル)に参加した。
これらの流れは、明治末年(明治44年)における京都画壇の一動向であり、大正期に華やかな活動をした国画会創作協会の前衛的な意味を持つ、ただ、それぞれの会の規模は、極めて小規模であり、存続したスパンも短い。そして、近代美術史に残る作品が生まれた訳ではない。-学術雑誌論文:美術研究(著者:関 千代)
その状況から、この辺りの研究論文は少ない。
大正7年(1918年)、麦僊は、京都市立絵画専門学校出身の同士であった村上華岳(むらかみ かがく、1888- 1939/日本画家)、榊原紫峰(さかきばら しほう、1887- 1971/日本画家)、小野竹喬(おの ちっきょう、1889- 1979/近現代日本画)、野長瀬晩花(のながせ ばんか、1889-1964/日本画家)とともに国画創作協会(大正7年-昭和2年/その後の国画会)を旗揚げを行なった。
その要因は、伝統的権威ある文展の審査のありかたに疑問を持った若手日本画家たちが、西洋美術と東洋美術の融合と新しい日本画のあり方を目指して結成した。
近代における日本画革新運動の代表的なものとして日本美術史では重視されている。
大正7年(1918年)、麦僊は第1回展に出品した『湯女図』(ゆなず)をはじめとして毎回意欲作を出品し、国画創作協会の中心的存在であった。
大正10年(1921年)、麦僊は竹喬、晩花とともに渡欧。約1年半に亘り、西洋絵画の研究と制作を行っている。
土田麦僊(35)と長女鏡子(4)-1922
(追記)土田麦僊とお嬢さんのポートレート写真から、黄蜀葵(トロロアオイ)を描いたのは、10年後だ。お嬢さんの鏡子さんも14歳の頃だろう・・・そして、今頃の季節だ。
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