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女性画家-小倉遊亀の静なる挑戦

小倉遊亀(おぐらゆき,1895- 2000)日本画家
日本美術院に属し活躍する、また、女性として初の日本美術院理事長となる。その画業と経歴は、画壇への女性の位置づけを押し上げた優れた画家だ。1980年には、上村松園についで女性として2人目の文化勲章を受章している、その当時は、まだ、女性の壁は厚かった時代だ。
 そして、晩年も意欲的に絵筆を執り(とり)続け、亡くなる105歳まで、昭和期の女性のみならず、多くの人々に感銘を与えた評価は高い。
画法は、ここに書くまでもない事だが、明快な造形であり、色彩と日本画ならではの線描、そこには、日本の精神文化が感じられる凛とした画面だ。明治以降の封建的な院展に於いて、女性ならではの日常の日本的な感覚で、近代的な表象が挑戦的にも感じられる。従来型の繰り返しでは、1つの様式を探れないという事だろう。

姉妹-昭和45年

浴女

概略-小倉遊亀
1895年、大津市丸屋町に生まれる
1913年、滋賀県立大津高等女学校入学
1917年、奈良女子高等師範(奈良女子大学)卒業。卒業後は、高等女学校(横浜)で国文学他を教えるかたわら、1920年より安田靫彦に師事した。
1926年、「胡瓜」が院展(日本美術院)に入選する。以後1998年に「椿三題」を出品するまで連続入選を果たす。
1932年、女性として初めての日本美術院同人となる。
1938年、山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚、以後鎌倉に居住した。
1951-1965年、新しい時代の日本画を模索する。(マチスやピカソなど西洋絵画をリサーチ、取り込み)
1966年-ある意味円熟期といわれ、独特の境地に到達する。
1976年、日本芸術院会員となる。
1978年、文化功労者に選出される。
1980年、上村松園についで女性として2人目の文化勲章を受章。(当時は、まだ、女性の壁は厚かった)
1990-1996年、日本美術院理事長。
1999年、パリで個展を開催。
2000年、鎌倉で逝去、105歳だった。

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小倉遊亀_椿_3号

苺 昭和7年 奈良女子大学

磨針峠-昭和22年 滋賀県立近代美術館蔵

青巒 昭和51

初夏の花-昭和37年

家族達-昭和33年

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(c)小倉遊亀

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Fig.小倉遊亀


(追記)美術作品の価値への私見
30年以上前には、〇〇年鑑等々には、外遊、何回と書いてあった。
それには、号(ハガキ程度)あたりの金額で学歴、会派、住所、電話番号、そして、外遊の回数まで掲載されていた、、その当時は、個人情報保護の視点は無かったのだ。(業界では当時、例えば1号10万程度の作家は、1号あたりの実売価格が決められていた)

当時は、ツアーでも外遊なのだ、私には、その意味が理解できなかった。
グローバルに、影響を受けることは、文化というものには不可欠だろう、ただ、西洋の、それを師(表象)とするなら、それを超えて、いや、超えなくともだ、そこから、自らの方向性へ、展開をしていても良いはずだ。
当時は、日本の洋画壇に君臨した作家の絵画は、国内の実売価格が高価で、何と、それは、例えば、ピカソさえも越えていた。いずれにしても、その作品の価値は金額では決して無いので、どうでも良いのだが・・・
 時間軸は、現在に至り、少なくとも、今はグローバル性に視点を置く時代に到達していると感じる。
真に挑戦なさった先人たちには、敬意を表したいところだ。


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