アメリカ写実主義と画家ウィリアム・グラッケンズ
ウィリアム・グラッケンズ(William James Glackens,1870–1938/アメリカの 画家)
19世紀のアカデミックアートの形式を拒絶し、アメリカ写実主義の画家であり、*アシュカン・スクールの創設者の1人だ。
第一次世界大戦(1914年7月28日-1918年11月11日)前、ニューヨークとパリでの、暗いカラーリングの時代、そこに鮮やかに描かれたストリートや屋外でのシーン、いわゆる日常生活の描写は、ウィリアム・グラッケンズの評価を確立したと言える。
他のアシュカン・スクール(アシュカン派)の画家も同様だが、そのアートキャリアの多くの間、ウィリアム・グラッケンズは、フィラデルフィアとニューヨークで新聞や雑誌のイラストレーターとして生計を立てている。
(cc) William Glackens
略歴 - William Glackens
Central High Schoolを卒業後、グラッケンズはフィラデルフィア・レコード(日刊紙)のアーティストレポーターになった。
1892年、彼はその新聞を離れ、フィラデルフィア・プレスのためにイラストを描いた。
そして、彼はペンシルバニア美術アカデミー(Pennsylvania Academy of the Fine Arts)の夜のクラスに入学し、現実主義者のトーマス・アンシュッツ(Thomas Pollock Anshutz , 1851-1912/ American painter and teacher)に師事した。
ジョン・スローン(John French Sloan ,1871-1951/アメリカ-画家・エッチャー)とは、ペンシルバニア美術アカデミーで出会い、スローンは、ウィリアム・グラッケンズをロバート・ヘンライに紹介した。
(註)ウィリアム・グラッケンズは、19世紀のアカデミックアートの形式を拒絶し、その素材を労働者階級と中流階級の大都市の生活に向けたスタイルを確立したメンバーの1人だ。(アシュカン・スクール-アシュカン派)
1895年、グラッケンズは、数人の画家と一緒にヨーロッパを旅し、パリのスタジオを1年間借りて、印象派とポスト印象派に触れている。
1896年、ニューヨークに定住し、ニューヨークのアーティストとして働き始めた。
その後、1906年、アソシエイトメンバー(Associate member)として、ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン(National Academy of Design/ ニューヨークの国立美術館と美術学校)に選出され、1933年には、学問の道を進んでいる。
1916年、新しく設立された独立芸術家協会(Society of Independent Artists)の会長を務めた。
そのSociety of Independent Artistsの使命は、まだ、あまり知られていない芸術家に幅広い展示の機会を提供することだった。
1938年5月22日、コネチカット州ウェストポートで休暇中に突然亡くなる、68歳だった。
William Glackens
ウィリアム・グラッケンズはアメリカの芸術における写実主義運動の不可欠な存在だったことは確かだろう。
アシュカン・スクールのメンバーたちに影響を与えているのは、ウィリアム・グラッケンズのイラストレーションの方かも知れない。
ウィリアム・グラッケンズは、後進の育成にも熱心に取り組んでおり、学術研究にも寄与している。
この時代のアメリカ合衆国でのイメージと文化を語る上では、はずせない学識者であり、実践的な画家だろう。
(註)*アシュカン・スクール(Ashcan School/ニューヨーク):20th初めの芸術運動で、都市と現代の日常生活についての特定の真実を伝えたいという願望で構成されていた。組織化しされた芸術運動ではなく、そこには、政治的、非政治的な視点の画家が混在しているような状態だ。
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