フォト・セセッションは、芸術としての写真の位置づけを目指した。
フォト・セセッション(Photo-Secession)とは、はじめて、芸術としての写真の位置づけの方向性を目指した。
ただ、写真が、完全にアートとしての位置付けを得るのは、その流れであるストレートフォトグラフィだったかも知れないが、、このフォト・セセッション(ピクトリアリス)は、写真史を語る上では外せない、また、当初のメンバーの、その後の流れも実に興味深いものがある。
ニューヨークでのピクトリアリスム(pictorialism)の方向性を持つ、写真家のグループだ。
1902年、アルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz,1864-1946)、エドワード・スタイケン(Edward Steichen, 1879 - 1973)、アルヴィン・ラングダン・コバーン(Alvin Langdon Coburn,1882-1966)、フランク・ユージン(Frank Eugene,1865-1936)、クラレンス・H・ホワイト(Clarence H. White,1871-1925)、ガートルード・ケーゼビア(Gertrude Käsebier, 1852-1934)、ハインリッヒ・キューン(Heinrich Kuehn,1866-1944)、カール・ストラス(Karl F. Struss,1886-1981)他が結成した。
その機関誌「カメラワーク」(Camera Work)は、1902年に刊行された。基本は、年4回刊行(季刊)、ほぼ、1917年まで全50号を刊行された。
1905-1917年、「フォト・セセッションの小ギャラリー」(Little Galleries of Photo-Secession)-ニューヨーク5番街291で開廊した、1908年に「291ギャラリー」改名する。
この当時、写真の画廊として着目される。ジュージア・オキーフの最初の個展も、この291ギャラリーで行われた。
ピクトリアリスムの中心核のアルフレッド・スティーグリッツは、1910年頃からは、ピクトリアリスムからストレートフォトグラフィに転向した、その流れから、スティーグリッツは、ピクトリアリスムを否定する流れとなった。それは、1917年頃には、衰退期となり解散の方向性となった。
ただ、美術史は後から語られるように、写真史もそうだ。全体像を体系的にまとめるのには、多様性を極め過ぎるようだ。
上記のメンバーのその後を追うのも、意義があるのかも知れない。
また、余談だが、写真の原点から、ズレた人たちもおり、ある意味、人とは何だろう、と考えると尚更だ。
Fig.Pictorialism
(註)*ピクトリアリスム(pictorialism):写真技術の科学者と写真技師は、同様のテリトリーだったが、芸術としての写真を目指す方向性を目指した。この視点は、学際だが、ただ、本来、ダゲレオタイプの時代からも、写真家は画家であった。(肖像画家のカメラ・オブ・スクラの視点)また、その「リンクト・リング」(Linked Ring-London)グループも、共に著名だ。