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都市の夢をなぞる -マネの絵画の面白さ


 
 
【月曜日は絵画の日】
 
 
何かのジャンルの嚆矢になる人や作品というのは、それまでと変わった特性を持っているものです。
 
初期印象派のリーダー格だったマネは、印象派の面々とは全く違う個性を持ち、多分本人も印象派とは思っていない状態でありながら、確かに新しい時代の芸術を開いた、色々な意味で興味深い画家です。




エドゥアール・マネは1832年、パリ生まれ。父親は高級官僚、母親は外交官の娘という、ブルジョワ一家です。小さい頃から絵を描くことが大好きで、美術好きの伯父に連れられてよくルーブル美術館に通っていました。


エドゥアール・マネ


もっとも、両親は法律家になるよう望み、本人はというとなぜか突然海軍士学校の試験を受けて不合格になったり、一年間船に乗りこんだりと放浪して、ようやく両親も好きな道を歩くのを許可します。
 
当時はまだ国の王立アカデミー主宰の美術サロンが全盛期の頃。マネもいくつか肖像画を描いてサロンに出品していきます。
 
徐々にサロン応募作も多くなり、落選者たちの不満が高まったため、時の第二帝政皇帝ナポレオン三世は、サロンの「落選者展」を開くことに。
 
1863年の落選者展に展示されたマネの『草上の昼食』は多くの非難を浴びます。更に2年後に今度はサロンに入選できた『オランピア』が、あからさまに高級娼婦を思わせるモデルと構図でこちらも大きな非難を浴びます。
 
しかし、この頃からモネやドガやルノワールをはじめとする若い画家たち、小説家ゾラ、詩人ボードレール、マラルメ等がマネのアトリエに出入りしたり、行きつけのカフェ・ゲルボワで交流するようになります。
 
骨髄腫の一種に罹り、闘病の末、1883年51歳で死去。死後急速に評価は高まることになります。


『笛を吹く少年』
オルセー美術館蔵




マネの絵画の特徴は、美しい黒と、古典絵画の豊富な引用です。
 
潤んだ質感の豊富な階調の黒は、本人も認める通りベラスケスの直接的な影響であり、フランス絵画ではクールベと並ぶ(もっともマネとクールベ本人は犬猿の仲だったのですが)美しい黒となっています。

そこには洒落者のダンディであったマネの美意識も伺えそうです(そういえばもう一人の近代絵画の黒の名手ホイッスラーもダンディな変わり者でした)。


『エミール・ゾラの肖像』
オルセー美術館蔵
右上に浮世絵と『オランピア』が見える


そして、古典絵画からの構図の引用。『オランピア』はティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』、『草上の昼食』もティツィアーノの『田園の奏楽』と、ラファエロの『パリスの審判』。他作品では、ゴヤもかなり引用しています。
 

『皇帝マクシミリアンの処刑』
マンハイム市立美術館蔵
下のゴヤの絵の構図を引用している
ゴヤ『1808年5月3日、マドリード』
プラド美術館蔵


こうした彼の特徴は、彼が少年時代ルーブル美術館に出入りしていたことに大きく因っています。
 
マネの少年期の7月王政期には、ルーブル宮内に「スペイン絵画館」が設立され、ベラスケス、ゴヤを始めとする17世紀スペイン美術黄金期の絵画をまとめて観ることが出来ました。
 
勿論、絵画史とは、過去の名作を模写し吸収してきた歴史ではありますが、19世紀のフランスでティツィアーノとベラスケスを直接引用する人は本当に変わっています。元々アカデミーの教育を受けなかったことも含め、彼は「ルーブルの子供」という感じがあります。


ティツィアーノ『田園の楽想』
ルーブル美術館蔵
下の作品と共に『草上の昼食』の
インスパイア元になった
ラファエロの絵に基づく
マルカントニオ・ライモンディ『パリスの審判』
右下の3人に注目
『草上の昼食』
オルセー美術館蔵


しかし、そういった部分も含めてマネの立ち位置はかなり曖昧なものです。
 
モネ達印象派の兄貴分となって援助を惜しまず、世間的にも当時から「印象派の指導者的存在」とみなされながらも、マネ本人は印象派展への出品をすべて断り、アカデミー側のサロンに出品し続けました。彼の嗜好自体は非常に保守的かつ古典的でもあります。
 
しかし、同時にスペイン絵画、ジャポニズムと海外の美術文化にも目を配り、モネをいち早く見出し「水のラファエロ」と称賛したりもしている目利きで、新しい絵画に対する理解もある。
 
そして、あれほど美術アカデミーに認められたがっているのに、1871年に起きた世界初の労働者による自治政府「パリ・コミューン」時にはパリに滞在し(直前の普仏戦争の関係上、若い印象派の面々はロンドンに逃れていました)、血の惨劇によるその崩壊を、生々しくスケッチしたりしています。


『内戦』リトグラフ


革新とも保守ともつかない何とも微妙な態度。そうした部分は、彼がある種の「天然」の人だったことに因る気がしています。
 
自分では興味があるものをごく普通に描いてみんなに認められたいだけなのに、何故かそれが度重なるスキャンダルを招いてしまう。
 
別に新しい流派を率いたいわけでもないけど、皆からは「新時代の擁護者」みたいに思われてしまう。
 
画面自体を観ると、精緻な筆致ではない厚塗りのため旧来のアカデミー派とはとても言えないけど、ふわふわした光や水の効果を狙う印象派とも違い、色彩で現実の光景を濃く染め上げる感覚がある(印象派は黒を殆ど使用しませんでした)。

そして、風雅とは言い難い雑な筆致は、やはり印象派の面子よりざらついた感覚と、速度を感じさせる。


『オペラ座の仮面舞踏会』
ワシントン・ナショナルギャラリー蔵


そんな特徴は第二帝政期のブルジョワだったマネ自身の生活にも基づいているでしょう。
 
パリのオペラ座や行楽地を描きつつ、娼婦たちや品のいいブルジョワの部屋も多く、ナポレオン三世に力を与えたブルジョワたちの成金趣味も感じさせます。ティツィアーノの優美な名画を、現代の高級娼婦に置き換えてしまう発想そのものが、悪趣味すれすれのブルジョワ趣味の残響がある。


ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』
ウフィツィ美術館蔵
『オランピア』
オルセー美術館蔵


印象派の面々の描く対象が、第三共和政の庶民と上流階級に二分されるのとは違う、中産階級ブルジョワの匂いというか。
 

『バルコニー』
オルセー美術館蔵


高級官僚の息子で、自分もダンディなブルジョワであったマネは、その天然さゆえに、自分の身の回りのものを感覚的にリアルに捉えた。だからこそ、従来の絵画からはみ出て、新しい絵画を創ることができたのでしょう。

丁度最晩年の大作『フォリー・ベルジュールのバー』が、店員とその鏡に映った像を見たまま描きながらも、どこか歪んでシュールに見えてしまっているように。


『フォリー・ベルジェールのバー』
コートールド・ギャラリー蔵




そんなマネは、パンクロックにおけるセックス・ピストルズのような存在だと思っています。
 
彼らの唯一のアルバム『勝手にしやがれ!』は音の作りだけなら、ビートルズを手掛けたプロデューサーによる、丁寧に創られた、ソリッドでどこか保守的なハードロックです。そこに、ひたすら現状を否定する歌詞と切羽詰まったボーカルがパワフルに乗ることで、後進に「自分もこんな音楽ができるのでは」と多大な影響を与えた。
 
マネも、古典の引用があり、正直なところ、技術的には後代の印象派と比べても荒い部分があります。しかし、自分の目の前の現実を見て、その場に居合わせることで、新しい時代の息吹を感じさせる作品を創り、後進の印象派に希望を与えた。
 

『鉄道』
ワシントン・ナショナルギャラリー蔵


その絵は、パリに生まれてパリに育ったマネが捉えた、都市の濃密なエッセンスであり、同時にスペインや日本、太古を含めたどこか遠い異国情緒も混ざった、19世紀の都市の夢でもあるのでしょう。

そんな部分から彼の絵を見直してみるのも、埃に塗れた絵画を洗い直して美を体験する楽しい機会になると思うのです。
 
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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