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時の花束に包まれて -クリスチャン・ディオールを巡る随想


 
 
ある作品ができる時は、その時代だけの空気だけによってつくられるのではない。過去もまた現在に流れ込んで、結晶になります。
 
クリスチャン・ディオールのドレスは、そうした時の流れが組み合わさり、モードを超えた普遍的な美を纏っているように思えます。




クリスチャン・ディオールは、1905年、フランス北西部生まれ。建築家になりたかったものの両親に反対され、パリに出て当初は外交官を目指します。
 

クリスチャン・ディオール


しかし、1920年代のパリは、シュルレアリスムやアールデコ等、新しい息吹を感じさせる芸術運動の真っ只中。多くの刺激を受け、作曲したり、劇を見たり、詩人たちと交流したりと、勉強はそっちのけで活動しています。
 
自分で画廊を経営するも1931年、世界恐慌の影響で父が破産し、画廊も閉店。あらゆる就職にも失敗したこの時期の彼を救ったのは、高値で売れたラウル・デュフィの絵画だったといいます。画廊時代はダリやマン・レイも扱っていたといいますから、審美眼の高さが伺えます。
 
そしてデザイナーの知人から影響を受けて、デザインの勉強を始めると、バレンシアガを始めとする人気のクチュリエたちが、彼のデザイン画を購入するように。
 
しかし、第二次大戦の勃発により、1938年に兵役についた後、南仏へ疎開。農作業をして野菜を売って生計を立てていました。
 
1941年にパリに戻ると、リュシアン・ルロンの元で働きながら再びデザインを習得、そしてパトロンを見つけ、1946年に自身のメゾンを設立し、翌年の初コレクションにて「ニュールック」を発表。優美なラインのドレスで、センセーションを巻き起こします。
 

ドレスとディオール


世界戦略を志向し、パリのメゾンで初めて小物類のライセンス製品を販売する等、積極的に事業を拡大していきますが、疲労が溜まっていたのか、1957年、療養中の心臓発作により52歳の若さで急死。

メゾンは生前のディオールの希望通り、弱冠21歳の天才、イヴ・サンローランが後を継ぐことになります。




ディオールと言えば、何と言っても「ニュールック」。1950年代をリードしたその美しいコレクションは、実のところ最前衛の革新的なものとは言い難いところがあります。


「ニュールック」1947年のコレクション


肩のラインは張らずに、腰を細く締め、緩やかに広がるスカートは、1930年代にシャネルらが示してきた、コルセットから脱却したドレスとは、真逆の方向性を持っています。
 
にもかかわらず、それが受け入れられたのは、戦時中の、肩パットを入れ、実用的で直線的なシルエットのミリタリー・ルックからの脱却と捉えられたことが大きいでしょう。
 
それでいて、ウエストラインを絞りながら自然に広がるドレスは、19世紀のバッスルを使ったドレスの華美さとは違う、清楚で控えめな印象があります。


1955年秋/冬のディオール・コレクションより


シャネルのライバルでもあったポール・ポワレ(彼はデュフィと組んで布地づくりをしています)の瀟洒なドレスともまた違う、凛とした力強さと、自然な優美さが同居しているドレス。
 
そこには、庭仕事が好きだったディオールが愛した花の形態のような、普遍的な美しさがあります。
 

写真集『Dior Glamour Mark Shaw』より


そして、彼が元々建築家志望であったことは、意外と大きい気がします。
 
花柄模様のドレスでも決してゴテゴテにならずに、アポロン的な明晰さと全体の調和が保たれています。建築的な造形美に満ちていて、ある種の威厳も無理なく同居している。
 
そういったところが、50年代以降、王室を始めとするセレブにも愛され、様々な公の場でディオールのドレスが席巻した理由でもあるのでしょう。


写真集『Dior Glamour Mark Shaw』より




また、「ニュールック」という言葉通り、ノスタルジアをあまり感じさせないのも興味深い。おそらくディオールは、美の復権を目指しつつも、昔をなぞることは、はなから頭になかったのではないでしょうか。


1947年「バー」のジャケット
「ニュールック」を象徴する写真の一つ


デザイナーとしての教育を受けるのがかなり遅く、しかも田舎に戻って仕事を中断する時期も挟んでいることで、自分が吸収したパリの20年代の美、パリで学んだ古代や日本をはじめとする異国の美を、じっくりと見つめ直し、自分が本当に創りたいものを熟成させていった。

そうすることで、過去へのノスタルジアが蒸留され、普遍的な美が抽出されたように思えます。
 
彼は早熟の天才ではありませんでした。パリの最新流行に眼が眩んでふらふらしつつ、20年代の最良の文化を身体に染み込ませながらも、なかなかそのアウトプットの機会を掴めなかった。そしてようやく40歳を過ぎて、一挙に爆発するように美を花開かせた。
 
本当に優れたものを創造するには、多様なインプットと、自分を見つめ直す時間が必要なのでは。そんなことも彼の生涯を見ていると感じるのです。


愛用のステッキを使って
修正箇所をチェックするディオール




ディオールが1957年に早すぎる死を迎えたことは、彼の周囲の人にとって痛恨事であったことは言うまでもありません。しかし、彼が遺したものを考えると、結構微妙な時期だったように思えます。
 
60年代半ば以降の、マリー・クワントのミニスカートやビートルズらを生み出した、カウンターカルチャーについていけたかどうか。ディオールの作品の中には間違いなく保守的な部分が結構あります。
 
ディオール本人が60年代を迎えられず、残された者が彼の遺産や言葉を再解釈したことが、現在のハイソなブランドイメージにも現れているようにも思えます。作品とは、作品そのものだけでなく、作者が生きて死んだ時も内包して、その意味を変えていくものなのでしょう。


1947年のディオール・コレクションショーの様子




ちなみに、ディオールが活躍した時代のオートクチュールの雰囲気を味わいたい方には、ジャック・ベッケルによる1945年のフランス映画『偽れる装い』をお薦めします。
 

(2024年11月現在アマプラ無料)


天才クチュリエが、婚約者のいる女性に恋をしつつ、ショーに向けて忙しすぎる仕事をこなして、徐々に神経をすり減らしていく、優美さと狂気が同居した傑作映画。
 
オートクチュールを支えるベテラン女性リーダーの存在や、仕立て直しの際のモデルとの、ユーモアとアイロニーに満ちたやり取り、下縫いをする女性工員たち等、どんなドキュメンタリーよりも生き生きと当時の様子を再現しています。ジャン・ポール・ゴルティエは、この映画を観てデザイナーになるのを決心したとのこと。
 

『偽れる装い』


そこで描かれるのは、ディオールが愛した花のようなドレスが、様々な人々の手を経て多くの「時」を内包して花開き、花束のようにその美しさと香りを漂わせる瞬間です。美しい衣服とはまた、そんな「時」の美しさを含んでいるゆえに輝くのでしょう。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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