木陰の憩い -ラファエル・コランの絵画の美しさ
【月曜日は絵画の日】
私はこれまで何度か、19世紀でも、印象派や象徴主義とは別の、アカデミー派の絵画を取り上げています。私は、彼らの絵画のエッセンスのような物がもしかしたら好きなのかもしれない。
ラファエル・コランは、そんなアカデミー派と印象派の中間にあるような、微妙な立ち位置の画家です。
黒田清輝ら、日本の留学生に教えたことで、日本の教科書にも載っていますが、改めて鑑賞すると、なかなか他には得難い面白さのある画家のように思えます。
ラファエル・コランは、1850年パリ生まれ。美術学校で、当時のアカデミーの権威、ブグローや、カバネルに学びます。1873年にサロンに初入選。その後も、権威として博覧会等で何度も賞を受賞し、レジオン・ドヌール勲章を受ける等、多くの名誉に包まれます。
1902年には、国立美術学校の教授に就任。その後、多くの生徒を育て、日本から留学してきた黒田清輝、岡田三郎助、和田英作等も指導しています。1916年、66歳で亡くなっています。
コランの作品は、安定した筆による甘美な女性像と、柔らかい筆致の融合と言えます。
前者は明らかに、師のブグローや、カバネル譲りの、すべすべで真っ白な陶器のような肌、整った理想的な顔立ちに顕れています。
そして同時に、緑を描く柔らかい筆致には、印象派の刻印がどこかエコーとして響いています。
ここで年代や年齢を整理すると、コランの苦しい立ち位置のようなものが見えてきます。
師のカバネルは1823年、ブグローは1825年生まれ。彼らの最盛期は、1850~60年代。カバネルの代表作『ヴィーナスの誕生』は、1863年の作品です。
そして印象派は、モネが1840年、ルノワールが1841年生まれで、カバネルたちが最盛期で最高権威の時に20代の若者でした。彼らはアカデミー絵画に反発し、同時に落伍者でもあったわけで、自分たちの画風を模索することになる。
彼らがロールモデルに選んだのは、1832年生まれで、カバネルらより10歳下で新しい感性を備え、アカデミーを挑発するような絵画を連発していた、エドゥアール・マネでした。
第一回印象派展が一大スキャンダルになったのは、1874年。この後1870年代から80年代に描けて美術界をリードして、20世紀初頭には、アメリカにも進出し、フランス本国でも完全に認められることになります。
モネの10歳年下で、第一回印象派展の前年にサロンに入選して、23歳にしてアカデミーの期待の星になっていたコランは、今更方針転換などできない立場にいました。
とはいえ印象派や、いちはやく英国で起きていたラファエル前派等の象徴主義を、明らかにアカデミー絵画の中に取り込もうとしている痕跡があります。柔らかい草木の筆致だけでなく、謎めいた身振り等。
しかしそれが、今観ると、どこかある種の「弱さ」も感じさせるようにも思えます。
例えば、カバネルの『ヴィーナスの誕生』はボッチチェリ以来のよくある主題を直接取り入れ、神話の伝統に、明らかにポルノグラフィックなポーズと肢体を融合させています。
それが、フランス革命で命脈を断たれた貴族や教会に代わって、ブルジョワによる俗物文化が浸透したフランス第二帝政期の、ある種の露骨さ、エネルギー、いかがわしさをよく表しています。この絵は、まさに第二帝政期の皇帝ルイ・ナポレオンの、国家予算単位でのお買い上げ作品です。
そんな第二帝政が終わるのは、1870年の普仏戦争での、プロイセンへの敗北。そして、世界初の民衆による自治政府パリ・コミューンの壊滅を経て、第三共和政へと移行します。
マネは、パリ・コミューンの惨状をスケッチに残していますし、モネやルノワールは、ロンドンに避難するも、親友で優れた画家だったバジールを戦争で失っています。
彼らは根っからの「市民」であり、安定した第三共和政によって、力を付けた市民階級のエネルギーを吸収していったとも言えます。
コランは、カバネルのように、恥ずかしげもなく古代の神話で技量を誇示するには、遅く生まれ過ぎ、印象派のように、市民を題材にして自由に現実を描くには、あまりにも技量が優れていました。
そんな立場が、彼のどこか夢想的な絵画にも表れているような気がします。
神話を選ぶにしても、古代の偉大で長大な神話ではなく、『ダフニスとクロエ』のような、当時人気の感傷的な題材。
そして夢見るように、まるで現実から目を逸らすように眼を閉じ、ぼんやりとした霧の立ち込める、アルカディアと呼ぶにはあまりに曖昧な美しさの木陰で憩い、佇む女性たち。
象徴主義ほどの物語性や幻想、毒があるわけでなく、静けさの中で、居場所を失ってしまっているような、宙づりの絵画のようにも思えます。
勿論、彼は晩年まで貧乏暮らしだったモネやルノワール、その他印象主義や象徴主義の画家に比べて、公的な名誉でも、生活の金銭的な余裕でも、遥かに恵まれた画家でした。
それでも、ある一瞬、こうした絵を描いていていいのだろうか、と迷う瞬間はなかったのだろうか、と思ってしまいます。
これ程優れた技量を持ち、流行も取り入れることができる人です。時代の歯車に取り残されている感覚を覚えてもおかしくはない。
だけど、そうあっても、今までの自分を完全に否定して無理に変えることもできない。抱えるものも大きいし、何より、彼自身が信じていないものを創ることはできない。
新しい○○の時代と言っても、その時代には、前の時代を生きてきた人たちがいます。2020年代のスマホとSNSの時代にも、紙の新聞と黒電話の時代を知っている私のような人間が生きているように。
アカデミーの絵画が、ブルジョワや王政の失墜と忘却と同時に段々と忘れ去れられていく時代でも、そうしたものを求める人たちはいた。そこに応えたコランは、一人の芸術家として、筋を通したと言うべきなのでしょう。
そして、その画風が、日本の絵画界にも大きな影響を与えたのは面白いところ。神話画を薄めて、印象派と折衷したその部分が、西洋の神話から離れて、自然描写を特徴とする日本の洋画にもうまく嵌ったようにも思えます。オリエンタルな親和性というか。
コランの絵画は、19世紀のアカデミーの中でも夢想度合いが強く、20世紀の現代美術やAI絵を通過した今の時代に観ると、瞑想的なトーンがより甘く煮詰まって、爛熟した柔らかい芳香を纏って迫ってくるように見えます。
それは、どちらかと言えば、アカデミズムというより、大衆的なイラストレーターの人に、インスピレーションを与えてくれる気がします。日本の絵画への影響も併せて、芸術とは、時代によって何度も意味を変えて、甦っていくものなのでしょう。
今回はここまで。
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またお会いしましょう。
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