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時の波を踊らせる -ロイ・フラーのダンスの魅惑


 
 
踊りとは、運動の軌跡であるがゆえに、儚くも美しい快楽と言えるのかもしれません。
 
20世紀初頭のダンサー、ロイ・フラーは、そうしたダンサーの中でも面白い趣向を持った、歴史的に面白い存在のように思えます。




ロイ・フラーは1862年、アメリカのシカゴ生まれ。舞台でキャリアを積み、ヴォードヴィルやサーカスのショーで、ダンサー、振付師として活躍します。

ロイ・フラー

 
1891年「サーペンタイン・ダンス」と呼ばれる、波打つスカートを効果的に見せるダンスを発明。フランスに渡ると、伝説的なミュージック・ホール「フォリー・ベルジュール」の常連出演者に。
 

ジュール・シェレによる
フォリー・ベルジュールでのフラーのポスター


マネの『フォリー・ベルジュールのバー』でも有名で、イヴェット・ギベール、ジョゼフィン・ベーカー等出演したこの劇場は、まさにベル・エポックの華であり、ロートレックもフラーの姿を描いています(先日行ったロートレックとソフィ・カル展にも素描がありました)。
 
その後は、後輩でやはり伝説的なダンサー、イザドラ・ダンカンを支援したり、弟子の公演を手伝ったりしつつ、パリに住んだまま、1928年65歳で亡くなっています。


ロートレックの描いたフラー


フラーの「サーペンタイン・ダンス」の特徴は、やはりその「波」に特化した視覚効果の面白さでしょう。
 
残されている映像での、腕をぐるぐる回して長い裾を波打たせ、花弁が開いては閉じるような効果を綿連と続けられる技量に、今観ても感心してしまいます。



 
それも観客が飽きないよう、腕をクロスさせて波模様を変えたり、エビぞりを決めたりと、高尚というよりも、お客さんを楽しませる芸人根性のようなものが伺えるのが、大変素晴らしい。
 
フラーの姿は、現代から見るとやや短足で、その分重心が下で、体幹がしっかりしている印象です。
 
それゆえに、身体を反ったり回転したりしてもフラつかずに、ドレスの効果を安定して楽しめる。劇場の叩き上げゆえの、見事な芸というべきでしょう。




その芸は、アール・ヌーヴォーの華麗な曲線模様を受け継ぎつつ、次の時代をも見据えたものでした。
 

ロイ・フラーの舞台写真(1902年)


ミュシャの版画に出てきそうな、ドレスの曲線模様が現れては消えるダンスは同時に、激しい運動に耐えられる素材の布、そして運動を最大限効果的に見せる照明(色とりどりのフィルムが交錯し、どんどん色彩が変化したといいます)なしには完成しないものです。
 
そして、彼女がヨーロッパではなく、アメリカ生まれなのは興味深いところです。




第一次大戦が始まる前までのアメリカは、経済大国として力をつけつつ、文化的にはどこか後進の気後れもあって、大陸のヨーロッパ文化に憧れている状態でもありました。ヘンリー・ジェイムズの小説に出てくるアメリカ人のような。
 
工業的には成功し、やがて20世紀初頭の、フォードによる自動車の大量生産への萌芽も見えてきたそんな時期。
 
フラーのダンスには、そんなヨーロッパの華美さへの憧れと、いい意味で身も蓋もない運動の炸裂があります。
 

踊るロイ・フラー


シャンデリアの灯のともる舞踏会で翻る、あのドレスの美しさ。あのときめいた時間。それを拡大して、複製すること。視覚的な快楽と心躍る時間そのものを大量生産していくような、そんな面白さが、フラーの芸の真骨頂でしょう。
 
彼女は19世紀まで続いてきたドレスを含む伝統と、機械文明の革新の、両方の子供であると言えるかもしれません。




1895年の映画の誕生により、彼女や弟子たちの姿が、初期のフィルムに捉えられていることも魅力です(勿論、色彩は分かりませんし、イザドラ・ダンカンは極度の取材嫌いだったためあまりありませんが)。
 


ただそれらを見ていると、「サーペンタイン・ダンス」は、逆説的ですが、劇場で見た時に最大限の効果を発揮するものだと感じます。
 
ここまで全身を使って、しかも身体が布により膨張と収縮の錯覚を繰り返すために、レンズで二次元の平面に取り込んでしまうと、その運動が限定されてしまう気がします。
 
劇場で、奥行きという三次元のベクトルも加えて二つの目によって感じる時、その永久に続くかのような色鮮やかな舞踏の波の快楽が、目の前で厚みを持ってこちらに浸透してくるものなのでしょう。




これは当時の演劇の記録にも言えるのですが、映像として残っていることは大変貴重であるのは間違いなくても、二次元の映像が、当時の人が体感できた魅力をそのまま再現できるわけではありません。映像とは、記録であっても、完全なものではないわけで。
 
でも、フラーのサーペンタイン・ダンスは、映画から遠く離れたものではないとも思います。

例えばジャン・ルノワールの名作映画『フレンチ・カンカン』のひらひらしたスカートの乱舞するあの圧巻のカンカン踊り。そして、何よりバスビー・バークレーに代表される、ハリウッド・ミュージカル映画の、殆どギャグすれすれの、大量のダンサーを配したダンスシーン。
 
そこには、様々な仕掛けで錯覚を創り出し、観る者に快楽をもたらす、フラーの芸のエッセンスがこだましているように思えるのです。


ジャン・ルノワールの映画『フレンチ・カンカン』


そんな彼女に捧げる言葉にふさわしいのはおそらく、詩人ポール・ヴァレリーが1921年に書いた戯曲体の作品『魂と舞踏』でしょう。
 
ソクラテスや彼の弟子たちが踊り子のダンスを見て、踊りそのものを省察する美しいこの作品。それは、フラーを始めとする、ダンサーという時の中の芸術を司る人たちに向けられた称賛のように思えるのです。


至高の試みだ・・・ 彼女が廻る、すると眼に見えるすべてが、魂から離脱していく。彼女の魂に付いた泥のすべてが、ついに、この上なく純粋なものから分離してゆく。人間たちと事物とは、やがて彼女のまわりで、漠とした円形の滓をなしてゆくだろう 

清水徹訳



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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