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フクサンブツとしてのアート〜資本主義とアートの矛盾と向き合う〜
A by-product and a sideline.
これまで自分のアーティストステートメントを今までしっかりと向き合って描けてなかったけど、一番素直に、正直に自分の今の人生とアートを言語化すると、
織田の作品は、世界全員アーティスト化計画に向けたフクサンブツであることがわかった。
■織田にとってのアートは、フクサンブツ
スタカフェで起業したい人の壁打ち相手や、
そういった人たちの一歩を後押しするイベント企画をしてきた後に、
T-KIDSでこどもたちの"やりたい"のきっかけや環境を作ること。
それらは両方世界全員が個性を発揮できる世界に向けた活動。
じゃあ自分のアートはなんなんだ?となった時に、
趣味という字に、趣と味が入っていて、割と近いきもしたけど、
ちょっと違うくて、
絵一本でやっていきたいとは思わない
(からこそそうやってる人は本当にすごいと思うしかっこいい)
し、
やはり世界全員アーティスト化計画を目指すことが一番根幹にあって楽しい。
■世界全員アーティスト化計画とアート
自分のアートはあくまでもフクサンブツなのかもしれない。
自分の活動、成長、そしてその時の心を表したものが
"出てくる"っていう感じ。
特に最近は依頼で動いてなくて、
描きたくなったら描く、
だし、
意図なく無意識の世界を表現してるから、特にフクサンブツ的。
アート制作は"目的"ではなく、"出現するモノ"
ただ、自分は描いてないと、多分やってられないし、精神を保ってるのも、自分を見つめ直せるのも、国が今の全ての活動ができてるのも、
アートのおかげ。
なしでは無理である。
それを買ってもらえたら、それは米麹や米糠だし、
買ってもらえないものならば、それは核燃料であり、プラゴミと同じである。
■作品か?ゴミか?
自分の活動で出たものが誰かのためになってるか?
それともゴミになってるか?
織田は、織田の作品を2つの評価をしています。
1つは、その作品を自分が本氣で好きか?
それを図るために自分の部屋で飾り続け、ひたすらに違和感を洗い出します。
納得いかなければサインをしませんし、例え、前に完成したと思っても、
塗り加えたり、上から塗り替えてしまいます。
もう一つは、それが売れたかどうか。
数千円だと、覚悟を持って買えないと思っているため、
織田の作品は3万円〜が多いです。
そうすれば倉庫にも眠らない。ゴミにならない。
そして、そうやって買ってもらえたフクサンブツは、きっとゴミではない。
資本主義の中でも、ゴミではない。
本当はゴミじゃないはずだけど、あえて
本当はアートなんて、全て意味があるし全て意味がない。純粋で綺麗で、全部をフラットに認めたり評価するものだろうけど、
僕はこの資本主義が嫌いだからこそ、
アートと資本主義の矛盾に向き合いたい。
そのために"売れなければゴミ"と自分に言い聞かせる。
他の人の作品には別にそうは思わない!
売れなくても意味はある。売れてなくても素敵なものもたくさんあるし、
まずその人から出てきた時点で素敵。
本心はそっち。
でも資本主義が嫌いだから、あえて売れるかどうかにこだわってる。
■矛盾も無常
諸行無常なのであれば、矛盾も無常。
何億年もあり続ける矛盾はないんじゃないか?と思ってます。
もしあるとすれば、それは
・間の道が見えてないだけ
・それこそが理
なので、それはそれで最高。
ただ、ことこの資本主義の中での矛盾なんて、チンケなものなはずだと思ってます。
所詮、恐竜より生きてる年数が短い、浅はかな人間が作ったシステム。
ここまで作れたのはすごいけど、逆に粗があって当然。
そんな中で生じる矛盾が、理である可能性なんて少ないと思ってます。
だから矛盾って楽しい。矛盾って最高!
矛盾は人に残された、面白い応用問題、人生をかけて取り組めちゃうような問題集です。
だからアートと資本主義。資本主義と教育。資本主義と個性。ここら辺と向き合いつづけて、矛盾を壊して新たな創造をしたいですね!
■世界の副産物
そんなこんなで、
自分が最近関心があるゴミ問題や、海水浄化、核燃料などのことも踏まえながら、アートは自分の活動の間に出る、フクサンブツであることがわかった。
自分のT-KIDSやみなひょ、過去にしてきた活動のフクサンブツが、アートなんだと思います。
あるがままだし、純粋なアウトプットだし。
■フクサンブツ
フクサンブツには、
お酒を作って出る酒粕とか、お米系だと米糠などが出てきて、
日本人は兼ねてよりそれを利用できる循環も作ってデザインしていたし、
それを目指したい。
かたや、核燃料とかプラゴミとかは、そのデザインができてない。
正確にいうと、人がそれを意識してなく、欲に走ってる、
もしくはそのデザインが、資本主義の膨張する量に追いついていない。
ちなみに、ゴミを出すのは人間だけ。
他の動物の出すフクサンブツは自然に帰る。
自然循環の輪から抜けたフクサンブツを、
人は作れてしまうし、それを戻せていない。
■和の國開國
江戸の日本の現代版をするには何が必要か?
それは、フクサンブツと向き合うこと。
そしてそれは、欲と向き合うこと。
■量の戦国時代、質の江戸時代
終わりなき欲の"量"の世界から、"質“の世界への転換。
僕らの生きてる資本主義は、金額を多く取った人がわかりやすく褒められる世界。首をたくさん取った人が褒められる戦国時代に近い。
江戸はそういう時代ではない。
もっと豊かさや質が生まれた。
その上で、食や生活の文化が生まれた。
次にやる北斎編では、そんな日本の豊かさをこどもたちに伝えたい。
北斎がその時から評価されたのは、その日本の文化の豊かさ。
陸続きの国が多い外国の人たちにはなかった概念。
■量が増えるとモノは変わる
モノを作るにしても、1個作るのと100個作るのは全く別の作り方になる。
こどもたちの教室でも、1人と2人と3人と4人と10人と30人だと、全く別のものになる。
事柄は、量が増える際にある臨界点を超えると"違うモノ"になる。
それぞれの量に応じた世界がある。
江戸時代の日本100万人。
でも今の日本は1億人。
100倍になったこのこの世界では、どんなデザインが必要なのか?
・それぞれの個性や感性や波長で区分けられた世界
・それぞれを越境する人と深める人
・食と水と仲間とエネルギーの人間の最低限生きる上でのインフラ
・強い力で製造された石油などを戻す力
・量が増えた人に対しても潤沢さを得るための循環、生成
これは仮説で、潤沢さは確保できるという仮定での話だけど、
そもそも全員個性があるから、それと同じで潤沢さも全員に行き渡らないという可能性もあるけど、
でも織田は世界全員アーティスト化計画を目指してるので、その可能性は考えながらも、全員へのインフラが整う可能性は常に考えていきたいと思います。
■生涯ライフアーティスト
織田はじゅうぶん、幸せだと思ってます。世界から見たらもう貴族です。
日本人は多くがそうだと思います。今の時点はね!
それは、様々な犠牲の上で成り立ってます。
それこそ、そこには、世界の工場から出た大量のフクサンブツがあります。
これ以上別に自分の幸せとかは興味ありません。
というか、幸せというのは"伸び率"だと思うので、
挑戦をして、失敗をして、成長する、
織田にとってはそれが伸び率になるので、
挑戦し続けてずっと幸せです。
失うものを恐れてたら挑戦はできないので、今あるものが全て失われても大丈夫と思えるように、その最悪状態は常にシミュレーションしています。
実際に起きたらショックは受けるだろうけど、その次は立ち直って動くでしょう。
とはいえ人間で自我が働きます。
もっと空であれるようになり、もっと挑戦できるように、精進して、
毎秒メタモルフォーゼしていきます。
そんな、挑戦、メタモルフォーゼを繰り返す中で、100歳、300歳の時に自分から出る作品(フクサンブツ)がどんなものなのか、
楽しみで仕方ありません
■無意識下におとす、染み込ませる、滲み出る
フクサンブツ、資本主義、矛盾も無常。
これらを言語化することで自分に染み込ませて、それが無意識下で次の作品に現れる。
その間、感性を働かせて得る意識・無意識のインプットは、全てこの思想の下で行われる。楽しみ!
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