誤解される方が楽
皆さんおはようございます!最近思いついた、かっこいいなと思った生き方について書きます!
ある友人が岡本太郎の本を読んでいたのを聞き、織田も久しぶりに読みました!
そこにあった「誤解されろ」という言葉がすごく面白くて、
そして数日間頭の中で煮詰めた結果、「そうでありたい」と思うようになりました!
織田はFacebookで繋がっていながらたまにしか会わない方には
・何してるの?
・カオスすぎる
・色々やってるね
と言われます。
いい意味で言ってくれていると捉えていると同時に、
「あ、この方向、アリかも」と思っていて、「誤解される」はそれを捕捉してくれているような気がしています!
■世界のデータ量から見て、「理解なんてされない」
インターネット上のデータ量は何百ゼタバイトにものぼっていると思うのですが、
人間が一生かけて処理できる容量はその100万分の1以下。
じゃあそもそも世界なんてわからなくて、さらにアナログ情報、
それぞれの生き様、考えなんて、もう無限に広がる宇宙であって
そもそも人が人を理解することなんて無理なんだと思っています!
そしてさらにインターネット時代になり、情報は切り取られ、加工され、二次三次四次と、どんどん尾鰭やらフンがくっついて伝わる。
そんな時代に有名なんかには到底なりたいと思わなくて、
さらになったとしても、「誤解されたい」と思うようになりました。
アートはそもそも「問い」を生むものだと思うので、
織田のFacebookや発信を見るたびに「?」となってもらう。
そういう存在であり続けたいし、
さらには
「謎なのに幸せそう」
「謎なのに慕われている」
「謎なのになんか重宝されている」
という
再現性が見えないし、再現性を説明しない、
指標で判断できない人間になりたいな、と思っています!
■誤解されるのがいい、と思うと楽になる
後もう1つ。
「誤解されるのがいい」と思うと、
弁明せずに
「あー、こう思われちゃったーまあいっか」
「あーこう思ったかー面白い」
「こう思われたなー、次回はじゃあ、こういうことを話してみよう」
とちょっと「誤解される」ということ自体を遊べるようになるなーと思っています!
それが機会損失になるならば、それはそういうご縁だったことと捉え、
あとはその「機会損失」と同じレベルで「ストーリー」が出るので、トントンかプラスだなーと思えるんじゃないか、と思っています!
■アート作品も、誤解されてからが独り立ち
実は、アートも結構似ていて、
作者が死んでからは、作者は弁解の余地がないので、勝手に解釈されて、広まっていく。
逆にいうと、作者が生きてて、それについて弁明している間は、その作品は親元離れてなくて、
作者が死んでからがその作品の自立とスタートなんだろうな、と思っています。
そんな作品たちの旅路を想像すると、作品がどんどん勝手に、織田が死んだ後に広まるために、いろんなところに作品を置いていきたいかも、と思い始めました!!
ありがたいことに、織田は発信量は人より多くできるというか発信していないとダメなタイプなので、
その特性活かして、いろんなところに絵やパフォーマンスや文字を、残りそうなところに置いていきたいなーと思っています!
ということで今日はちょっと最近自分で得た楽しい概念について!
皆さん今日も素敵な1日を!!^^