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没ネタの記:月岡芳年の箱庭への異常な愛情

これまでARTISTIANで何回か浮世絵師・月岡芳年の箱庭趣味について触れてきました。

箱庭制作に駆り出され、完成したらしたで早朝から箱庭の手入れを任される芳年の弟子たちの嘆き・・・はては箱庭を借金のカタに取り上げられたことなどを紹介してきました。

今回はあまりにマニアックかつ長い引用になることから簡単な紹介にとどめていた、『やまと新聞』に掲載された月岡芳年の箱庭についてご紹介します(絵でも描ければ、箱庭を再現した絵をつけたいところですが・・・)。記事のタイトルにした通り、並々ならぬ箱庭へのこだわりを感じさせます。

当時の新聞で紹介された月岡芳年の箱庭

引用記事の冒頭は以下の通り(以下、引用部の変体仮名や旧字体はすべて新字体に直し、適宜読点を入れています)。

芳年翁 手製の箱庭
先頃の新聞にも(先月廿三日頃)芳年翁が箱庭の事を記したるが翁は其後ふたゝび製造つくりた十六基の箱庭に丹精を顕はさる

『やまと新聞』明治22年9月12日より

芳年の十六基の箱庭紹介のはじまりはじまり。

山王祭

其第一は山王祭、是は昔し山王の祭礼に一台のほこ牽出ひきだし牛ヶ淵の景色を見せ豆の如き陶器製の人形が整列して(其人数五十三粒)練行ねりゆく体裁うるわしくも可愛らしき状態ありさまにて耳を傾むけてきくときははやしの音きやりの声もきこゆるが如くに思われことのほか上出来なり(其陶器師は浦野繁)。

『やまと新聞』明治22年9月12日より

浦野繁は尾形乾山の子孫の養子となり、六代目乾山を自称した陶工・浦野乾哉うらのけんやのこと。晩年にはバーナード・リーチに教えたこともあったとか。ご参考までに尾形月耕が描いた山王祭をリンクしておきます。

田家の苗代

其第二は田家でんかの苗代にて是は何処いづこと見せたるにあらず。只ある田家いなかの苗代を造りたる物にして牛を野翁おきなが無心にありむぐら(引用者注:生い茂ったつる草のこと)にとぢられたる農家がしづかあり。其他苗代の蒼々たるていこれも我耳を傾むくる時は鳴子の音かわずの声が遠く近くきこゆるの想像おもいあらしめ天然の雅致そなわりて就中なかんずく嬉しう出来たり。

『やまと新聞』明治22年9月12日より

縄手の懸茶屋

第三は縄手の懸茶屋かけちゃや、是は東海道大津の宿の尽処はずれにして懸茶屋の妙なるは云ふに及ばず近く来る小原女おはらめの尻のふりかた遠く立つ農人のうじん鍬柄杖くわづかづえいづれも真に迫りて奇なれど就中とりわけて懸茶屋に人物をおかずにあり肥溜ためうちに茶殻を入れてあるなぞは実に人をして其処そのところらしむるの感じを起させく聴かば軽尻馬かるしりうまいななく声の聞ゆるかと思想おもはれてすこぶる閑気のんきはなはだ妙なり。

『やまと新聞』明治22年9月12日より

閑林の茶亭

第四は閑林の茶亭さていなるが是は京桶の左官湯山音次郎が丹精に成たる茶亭を軸とし其他の構へ到らざる隈もなくかゆきところに手の届くとは此辺と想はれ是も観る人をして松風せうふうを聞せ思ひ邪しま無らしむるの趣きありて其妙なる例ふるか物なし(後は次号に)

『やまと新聞』明治22年9月12日より

湯山音次郎はたびたび芳年の逸話に登場する左官で、半ば内弟子のように芳年の家に寝泊まりしていたようです。

深更の原野

(前号のあと)第五は深更しんかうの原野、是れは遠山えんざんを軸として其の麓より何処いづこまで連なりたるや際限もなき宏原くわうげんうち深更しんしういまぞ丑三ツとも思ふ頃ほひ両頭の狼獣おほかみくさむらの中より出没して秋天片月の影にえ宿を取後とりおくれたる旅人もがなど、求食あさりをれる趣むきを備へ、信濃あるひは甲斐辺りの原野と見えてすこぶる凄くことに其狼獣は象牙彫刻師を以て有名なる美術家島村俊明翁が丹精に成りたる物ゆえ一段と凄気すごみそへたり。

『やまと新聞』明治22年9月14日より

島村俊明しまむらしゅんめいは、16歳の若さで回向院の欄間を手がけて有名になった彫刻家で、のちに牙彫家となり高村光雲・石川光明とともに彫刻の三傑と称された人物です。そんな人物に趣味の箱庭のために狼を彫らせる芳年の徹底ぶりに驚かされます。

島村俊明

円月の井

執筆した記者が紙面が足りないことに気付いたのか、このあたりから説明が足早になってきます。

第六は円月の井、是れは一ツの拮撑はねつるべを見せたるものにて古色あつてはなはだなり。

『やまと新聞』明治22年9月14日より

鈴ヶ森

第七は鈴ヶ森、是れは昔しの鈴ヶ森刑場のところを顕はし例の供養塔をたてかたはらに梟首台けうしゆだいと捨札をて笹薮を見せたるなど至れりつくせりと云ふのほかなし。

『やまと新聞』明治22年9月14日より

安部川の渡頭

第八は安部川の渡頭わたし、是れは東海道安部川の渡しにして同じく昔しの状態ありさまを模し川越連台を見せたるなど人をしてうたた懐旧の情をおこさしむるの妙あり。

『やまと新聞』明治22年9月14日より

膳所の城

第九は膳所ぜぜの城にして戸田一西とだかずあき(引用者注:初代膳所藩藩主)の往古を思はせ、

『やまと新聞』明治22年9月14日より

芝浦の景色

第十は芝浦の景色を見せ人の心を爽快ならしめ、

『やまと新聞』明治22年9月14日より

穴稲荷

第十一は穴の稲荷を造れり。是れは上野の稲荷の奥にて穴を臨みて両三狐が出没するてい青苔せいたいなめらかにして頗ぶる雅致がちあり。

『やまと新聞』明治22年9月14日より

積善の水

第十二は積善せきぜんの水、是れは昨今その跡を絶ちたるがの流れ灌頂を見せたる物にて産女うぶめなぞが迷ひ居る如くに思はれ、

『やまと新聞』明治22年9月14日より

唐崎の松

第十三は唐崎の松、是には明智左馬之助が馬轡をつて佇立たたずみをり遠近の景色その度に適ふて丹精いたらざる隈もなく、

『やまと新聞』明治22年9月14日より

本能寺の変の後、追い詰められた明智左馬之助が琵琶湖を馬とともに「湖水渡り」したという伝承を元にした箱庭のようです。芳年の師匠である歌川国芳が描いたこんな左馬之助が箱庭になっていたのかもしれません。

歌川国芳《勇士左馬之助満晴》

庭園の飼猿

第十四は庭園の飼猿しえん、園の内に猿猴を飼養するていにして狙公が朝四暮三の餌を孤吟長嘯こぎんてうせうして山を思ふの姿を見せ、

『やまと新聞』明治22年9月14日より

こちらは四字熟語「朝三暮四(目先にこだわって結果は同じであることに気づかないこと)」の語源となった中国春秋時代の宋の狙公にまつわる話から。狙公が飼っていた猿にトチの実を朝に3つ晩に4つ与えると言うと猿が怒り出し、朝に4つ晩に3つ与えると言ったら喜んだという故事をあらわしています。

今戸の朝烟り

第十五は今戸いまど朝烟あさけむり、是れは即ち今戸の朝烟りを見せたる物にて瓦を焼くかまどの塩梅むかふ河岸を遠見に顕はし其真景を写し得て妙なるが此一箱は主人翁が例のお箱物に縁あるにりたるならん罪ふかし〱。

『やまと新聞』明治22年9月14日より

「例のお箱物」「罪ふかし」とは何のことを指しているのでしょうか?今戸に芳年の馴染みの芸者がいたのでしょうか?気になるところです。

古橋の修繕

第十六は古橋の修繕、さて此の古橋の修繕なるが是等は真に絶妙にして其の結構いはんかたなし。づ或る村の朽果たる板橋を造り橋の前後に跨ぎを設けて之れに「ふしん」と云ふ小さき札を下げかたはらに仮橋を渡し橋の袂にはも有るべしと思はるゝ大老杉あり。其杉に標縄しめなわまとひ豆の如き絵馬を懸け白布さらしのぼり四五本たてゝ之を大杉大明神と崇めたる容体と云ひ其ほかすべて不思議に奇にして実に妙なりと云ふに止まりなまじひ評せざる方よろしからんとの衆議なり、惣じて益々精巧を極め愛弄あいろうに余り有る物にして世の同好の人一見を請はゞ記者が評言のまことなるを知る事あるべし

『やまと新聞』明治22年9月14日より

これだけ記者にほめられたら、借金取りが芳年の箱庭を借金のカタに持って行ったのもうなづけます。改めて芳年の箱庭について触れた記事はこちらから。

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