これまでARTISTIANで何回か浮世絵師・月岡芳年の箱庭趣味について触れてきました。
箱庭制作に駆り出され、完成したらしたで早朝から箱庭の手入れを任される芳年の弟子たちの嘆き・・・はては箱庭を借金のカタに取り上げられたことなどを紹介してきました。
今回はあまりにマニアックかつ長い引用になることから簡単な紹介にとどめていた、『やまと新聞』に掲載された月岡芳年の箱庭についてご紹介します(絵でも描ければ、箱庭を再現した絵をつけたいところですが・・・)。記事のタイトルにした通り、並々ならぬ箱庭へのこだわりを感じさせます。
当時の新聞で紹介された月岡芳年の箱庭
引用記事の冒頭は以下の通り(以下、引用部の変体仮名や旧字体はすべて新字体に直し、適宜読点を入れています)。
芳年の十六基の箱庭紹介のはじまりはじまり。
山王祭
浦野繁は尾形乾山の子孫の養子となり、六代目乾山を自称した陶工・浦野乾哉のこと。晩年にはバーナード・リーチに教えたこともあったとか。ご参考までに尾形月耕が描いた山王祭をリンクしておきます。
田家の苗代
縄手の懸茶屋
閑林の茶亭
湯山音次郎はたびたび芳年の逸話に登場する左官で、半ば内弟子のように芳年の家に寝泊まりしていたようです。
深更の原野
島村俊明は、16歳の若さで回向院の欄間を手がけて有名になった彫刻家で、のちに牙彫家となり高村光雲・石川光明とともに彫刻の三傑と称された人物です。そんな人物に趣味の箱庭のために狼を彫らせる芳年の徹底ぶりに驚かされます。
円月の井
執筆した記者が紙面が足りないことに気付いたのか、このあたりから説明が足早になってきます。
鈴ヶ森
安部川の渡頭
膳所の城
芝浦の景色
穴稲荷
積善の水
唐崎の松
本能寺の変の後、追い詰められた明智左馬之助が琵琶湖を馬とともに「湖水渡り」したという伝承を元にした箱庭のようです。芳年の師匠である歌川国芳が描いたこんな左馬之助が箱庭になっていたのかもしれません。
庭園の飼猿
こちらは四字熟語「朝三暮四(目先にこだわって結果は同じであることに気づかないこと)」の語源となった中国春秋時代の宋の狙公にまつわる話から。狙公が飼っていた猿にトチの実を朝に3つ晩に4つ与えると言うと猿が怒り出し、朝に4つ晩に3つ与えると言ったら喜んだという故事をあらわしています。
今戸の朝烟り
「例のお箱物」「罪ふかし」とは何のことを指しているのでしょうか?今戸に芳年の馴染みの芸者がいたのでしょうか?気になるところです。
古橋の修繕
これだけ記者にほめられたら、借金取りが芳年の箱庭を借金のカタに持って行ったのもうなづけます。改めて芳年の箱庭について触れた記事はこちらから。