観えるものを描く。
何かを確かめたいのだろう。
まず、理解が訪れた。
そして、それを描いて確かめている。何枚も、何枚も。
モネの旅立った世界。
その絵にモネはいない。
当たり前だ。モネの目線なのだから。
ーーー
世界には自分は見えない。
鏡の中や写真の姿は「現象」でしかない。
真実は、自分の見えている世界ではないだろうか。
しかしその真実も、実にあやふやだ。例え風景を見ても、どう見えるかは千差万別。だから、写真のように「現象」を頼りにする。
ましてや、自身の心はさまざまな現象を引き寄せる。
神秘体験を求める心が、光の差し込む現象を引き寄せ、写真に納めるように。
孤独に苛まれる心が、広大な荒地の元、朽ち果てる男の姿を描くように。
もっと、深く観なければならないと思う。自分の心の風景が鍵にはなるが、もっと観れば、ありのままの風景が見えるはずだ。
現象ではなく真実が。それを先人たちは描こうとしてきたのではないか。その時代、その背景、その心を鍵として。
目の前に、人がいる。
目の前に、犬がいる。
目の前に、猫がいる。
目の前に、人が観え、目の前に、人が在る。
言わんとしてることがわかるだろうか。
私の観えた風景を描くのに、私の姿はいらない。
それでもやはり、私を描かないといけないのだろう。
私は、できるだけまっさらな、何かが描きたい。
それを何度も何度も確かめている。
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