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失われし心を取り戻すために踊る。

疲れている時に、この動画を観たくなる。ここに記録されている一つの奇跡に対して、何かを付け加えるのは野暮というものだろう。
でも言うなれば、失われし幼き心の純粋性と無限の可能性を、この中年末期の寂れた魂に注がれるような思いがするのだ。踊れ、踊れ。我が心よ。(11/30感想)

オーラヴル・アルナルズ。大好きなクリエーターだ。
ここに出てくる登場人物から、うちの息子の魂の煌めきを感じるのだ。どこまでも自由で、どこまでも無限で、世界をまっさらに、そして時に恐ろく、風でなびく白いカーテンをめくるかのごとく、新しい場所へ向かっていく。
心打たれる。かつて自分にもこんな感性があったのだと。今はまるで枯れ木のような姿だが、その下の朽ちた落ち葉の奥の奥には、柔らかな虫や草の根のささやきのような、魂の振動を感じるのかもしれない。

社会に矯正され、自身にルールを強い、リーダーになり、評価を求め、生活をこなし、身を粉にして家族を守って、頑なな石のように自分というものを固めてしまった今でも、あの音楽に合わせて踊る少年少女たちのように、僕もまた踊れるのだろうか。
未熟な命は生と死が隣り合わせで、自分の足で立つことはできない。だから、その土台を作るために葉を枯らし、土に埋葬していくのだ。そうして、生きていく。初めて誰かのために生きれることも出来るかもしれない。
新しい芽吹きのための死。失う感性、その心。
ちょうど、神社で御神籤をひいたら、似たようなことが書かれてあった。

見えない神様たちは、いつだってそばにいる。

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余談だが、このMVを観ながら、かつてコンテンポラリーダンスの舞踊家の女性に恋をしたことを思い出した。それは、彼女という人間性に恋したわけではなくて、そのダンスの美しさに恋をしたことに気づかなかった。単純にファンだったということだ笑。何度かデートに誘ったがうまくいくわけもない。僕自身の個展にも誘ったが、「ジブリみたい」と感想を言われて深く傷ついた(苦笑)。今思えば、実に芯をくっている。自分というものを幻想的な砂糖菓子で固めたような絵は、所詮有名なイメージのパクリにしか見えなかったのだ。

コンテンポラリーダンスは、僕の魂の深い部分を揺さぶった。今でもそうだ。とある番組でギリシャ神殿で踊るダンサーたちに心をときめかせるのも、もしかすると前世で何か関わりがあったからかもしれない。そうでなければ、ダンスのダの字にも関わりがない人生を歩んできた画家が、これほど心を奪われる理由がわからない。

振付師は、確固たる哲学を持って動きを決めていくだろう。しかし観る人間には関係ない。その舞踊がどれほどの努力の末に体現させたのかも知らないまま、ただ魂は、強烈に震え続ける。
まるで、太古の昔に描かれた壁画を見て、現代人の自分が圧倒されて涙を流したように。
そこに純粋な世界の裏側のエネルギーがある。日常生活を慢心に生きていては絶対に見出すことのできない「種類」の美しさ。そのことを知って以降、花が散り、風に泳ぐ鳥たちを観ながら、同じく世界の真実を理解できたのだ。
同じ波長があり、リズムが見える。

かつての、あのダンサーのように、絵が描きたい。かつての同級生のピアニストのように、絵が描きたい。何を描くかではない。どう描くか、なのだ。

それには、子供の頃の純粋な衝動を思い出すこと尽きると思う。思い出せ。深く、深く潜って。そして踊れ。踊れ、踊れ、踊れ。

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