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仏典を落とす。
盛岡出張を終えて、帰りの大宮駅までの2時間、新幹線は満席だったので、立って本を読んでいました。
ティクナットハン禅師の本「ブッダ」。途中何度も涙ぐむほど良いです。禅師は詩人でもあり、ブッダの生涯を優しく語りかけるような本です。
こんな人になりたいと心から深い部分で望んでいます。そんな感銘を受けている本なのに、電車に乗り遅れそうになって、知らずのうちにホームに落としてしまっていました。
電車に乗り込もうとした時に、1人の女性が「落としましたよ!」と、本を片手に呼び止めてくれました。
僕は、ハッ!っと思って、恥ずかしさとありがたさとで、何度もお礼を伝えました。
2つ思いました。
1つ目は、「こんなに感銘を受けた本を、電車に乗り込むのに必死で落としてしまった自分に、心底苦笑した」ということ。
人間というのは実に愚かで、すぐこうやって、周りに流されてしまう。これを身をもって体験しました。
ここでいつもなら、鞭打つように自分を責め、失望するところなのですが、苦笑で済んだのは、あまりに滑稽すきだからです。バカだな、ほんと、と諦めて、こうやって人は、学んでいくんだなと、腑に落ちました。学ぶんだ、繰り返し。一回で分かったような気になるなよって。
そうして二つ目に思ったことは、「そうした失敗を何度繰り返しても、捨てる神あれば拾う神あり。助けてくれる存在がいる」ということ。
これは、財布を落として拾ってもらった、みたいな感謝の話とは違うのです。
僕は、ブッダの生き方に心から共感したのに、すぐに我を忘れてしまった。それでも「望む心」があれば、再度やりなおすチャンスを与えられる、ということ。それは、「親切心に満ちた人」から与えられるのかもしれませんね。なんと優しいことなのでしょう。
・・・
「慈愛」について、ブッダが王にこう説きます。
すべての命あるものが真に希う愛とは、慈悲という愛です。「慈(マイトリー)」は他者に幸福をもたらす力を持つ愛。「悲(カルナー)」は、他者の苦しみを取り去る力を持つ愛です。「慈」と「悲」は、いかなる見返りも求めません。
慈悲、のもとに、いつも生きていきたいと思います。また本を落としても、妻に小言を言われても、父の日を忘れ去られても・・笑。
失敗を繰り返し、感情が乱れながらも、また呼吸に戻り、穏やかに一歩一歩歩いていくだけですね。
おしまい。
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