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連載小説「天国へ行けますか?」 #7

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前回の続きです。

連載小説「天国へ行けますか?」 #7


「松永…」

会いたくはない。しかし、会うしかないのだということはわかった。ここで誤魔化したり、逃げたりしても、また振り出し、つまりあの便器と友達のゲロまみれの時間に戻されるのだろう。

しかも、ただ会えばいいというわけではなく、ヤケを起こしたりしても同じだ。俺は自分の人生の“ふりかえり”をして、過去を清算しないとならないのだ…。

ここにあるのは、俺自身の見栄やプライド、その裏にある自分自身の自信のなさや自己価値のなさ、自尊心の低さなど、見たくない自分なのだ。

松永は、俺の過去も知ってるし、俺の弱さも知っている。だからこそ、会いたくないのだ。しかし、俺は松永と面と向かって会う必要がある。そうしないと、次に進めなない。

だからキッチンから、玄関へ向かわなければならないのだが、その気持ちに、実際の足取りがついていかない。

どうせ一度は死んだ身、というか、どうせ死んでる身なんだから、怖いものなどないはずなのに、リアルに感情があり、激しく抵抗する自分がいる。そもそも、何度も疑ってしまう。

(本当は死んでなどおらず、ずっと夢を見ていただけではないか?)

実は、さっきもそう思っていた。今目の前に展開され、このリアルな感覚こそが、たった一つの俺の現実…。しかし、それで松永をやり過ごしたら、あの便器に戻っていた。

だから先ほどのように、いや、過去にそうしてきたように、このままやり過ごしてしまいたい…、しかし…。

「ピンポーン、ピンポーン…」

インターフォンの音が鳴り響き、今度は「どんどんっ」とドアを叩く音が聞こえる。叩き方は決して急かすような、例えば借金取りが来たような叩き方ではない。

松永のことだ、俺が家にいて居留守をしていることをわかっているのだ。だからあえて大きな音を立てて伝えてる、伝えようとしている。それをひしひしと感じる。

(どうする…、いや、行くしかない、わかってる…、しかし)

思考と体がバラバラになりそうだ。

(ひょっとして、これって一種の地獄ってやつではないのか?)

ふと、そんな考えが浮かんだ。真正面から、自分の弱さと向き合わない限り、延々と繰り返される世界。それをやらない限り、この無限ループから抜け出すことができない…。

ぴんぽーん!

と、兄の声が頭の中で一瞬だけど聞こえた気がした。俺はつい周りをキョロキョロ見渡す。また、すぐ近くにいるのではと。

しかし、誰もいない。キッチンには俺一人だ。

「ピンポンピンポン…。どんっ、どんっ、どんっ!」

ここが天国でないことだけは確かだ。そして、天国に行くためには、このつまらない感情に打ち勝つしかない。

意を決して、俺は玄関に向かった。

ドアの前で深呼吸をする。このドアの向こうに、松永がいる。はっきりと気配がする。松永はいつもの落ち着いた、どっしりとした立ち方で、このドアの前で、俺を待っているのだろう。

「どんっどんっ!」

目の前のドアが響く音に、流石に驚く。

俺はもう一度深呼吸をして、ノブに手をかける。そして、錠を下ろした。

ゆっくりと、ドアを開くと、俺が想像した通り、松永は両足を肩幅くらいに広げ、堂々と背筋を伸ばして、そこにいた。

「……よお」

松永は、それだけ言って、俺を憐れむでも、まして敵意を向けるでもない、優しい眼差しをしたまま、口をつぐんだ。

「…よお」

俺も、そう返した。松永はジーパンにジャケットという、数年前に袂を分けた頃と同じスタイルだったが、少し太ったかもしれない。しかし、老けた様子はなく、むしろ快活そうだ。以前が背丈の割に痩せすぎていたのだ。

「…」

「……」

お互い、言葉が出ない。何を言うべきなのか?何を言いたいのか?二人とも、なんだかわかっていないまま顔を合わせて、いざ顔を合わせると、余計に言葉がうまく出てこない。

「……まあ、入れよ」

気まずさから、俺はそう言うしかなかった。

「ああ…」

俺が中に招き入れると、松永はのっそりとした動きで自宅に入った。

「コーヒー、飲まねえか?」

松永は靴を脱ぎなら言う。俺の顔を見ないで、遠慮がちに言った。

「どうせ、やけ酒でもして二日酔いだろうから、コーヒーでも淹れようと思ってな…」

松永は肩にかけていたトートバッグをこちらに見せながら言った。おそらく、中にはコーヒー豆、コーヒーミル、ハンドドリップの機材一式が入っているのだろう。

「コーヒーか…」

俺はそう答えるのが精一杯だった。すでに口の中に、鼻腔に、コーヒーの香りと苦味が広がっていた。

松永は下戸なので酒は飲めないが、コーヒーにはこだわりを持っていた。どんなに忙しい時でも、豆を挽いて、ドリップしたコーヒーを飲んでいたし、俺も一緒に飲んでいた。キャンプや、仲間で旅行に行った時も、道具一式持ってくるやつで、時々めんどくさいやつだと思いつつも、松永の淹れるコーヒーはいつも美味かった。

「お前のコーヒー、久々に飲みてぇな…」

ぼそっと、自分でも心の声が漏れたというような感じで、思わず本音の言葉が出た。

松永はそれには何も答えなかったが、

「キッチン…、借りるぞ」

とだけ言った。どこか照れ臭そうだった。

松永がいなくなってから、俺はしばらくはコーヒーを飲まなくなった。会社は扱いやすい若い人間で固めたのだが、俺の周りに新しく入ってきた若い連中はあまりコーヒーを飲まなかったし、俺自身、松永を思い出すのもシャクだったのだ。

しかしセミ・リタイアしてからだ。松永がやっていたように、俺も機材一式買って、豆を挽いて、あれこれいろんなブレンドを試したりするようになったが、正直、あの忙しい日々の休憩中に飲んだ、松永の淹れたコーヒーを超えるものは、死ぬまで飲めなかった…。

俺の呟いた「お前のコーヒーを飲みたい」というのは、俺にとっては何十年分の、お前のコーヒー、なのだ。もちろん、そんなこと松永に言わないが。

松永は自分で持ってきたケトルにミネラルウォーターを注ぎ、弱火で火をかける。

「おいおい、ヤカンくらいなら俺のウチあるぜ?」

俺がそう言うと、

「そう思ったんだけどよ…。ほら、細口のコーヒー用のは持ってないだろ?」

「まあ、確かにそうだな」

俺がコーヒードリップ用のケトルを買うのは、もっとずっと後のことだ。

「カップならあるだろ?」

俺は戸棚からコーヒーカップを二つ出した。来客用に、妻が以前いくつかのレギュラーカップのセットを買ったのだ。

松永は豆は年季の入ったコーヒーミルに入れて、手回しで挽き始めた。

ガリガリガリガリと、豆が挽かれる小気味良い音を聞きながら、俺はカウンターのスツールに腰掛け、その様子を眺める。見慣れた、落ち着く光景であり、部屋中に広がる、コーヒーの香りが、さらに俺をリラックスさせる。

「お前の想像通り、今日は二日酔いでな。コーヒーは、ありがたい」

「そうだろうと思って、二日酔いでも飲みやすい、浅煎りの豆の特製のブレンドにした。ちなみに焙煎も自分でやっている」

「焙煎も?おいおい、どこまで行く気だよ」

思わず、俺も笑みが溢れる。松永も笑う。二人とも、初めて自然な笑顔と会話になった気がする。

「俺さ…、今度、自分で喫茶店でもやろうと思ってな…」

松永がドリッパーをセットしながら言う。

「へぇ…お前が、コーヒー屋のマスターやるのか?」

「ああ、そのつもりで、今あれこれ勉強しているんだけど、飲食経営はなかなかやりごたえありそうだ」

「お前なら、きっと何やってもうまく行くさ」

「適当なこと言うなよ」

「いや、本当だよ。絶対上手く行く。人から必要とされる」

照れ臭そうにはに噛む松永に向かって俺はそう断言した。

しかし、これは正直な感想でありつつ、カンニングでもある。なぜなら松永は今から数年後には、やり手の飲食店の出店コンサルタントになり、いくつものカフェをプロデュースし、海外チェーンの進出を逆手に取ったオリジナリティある店舗作りを行うようになるのだ。俺はその動向を密かにチェックしてた。そして、松永の成功を嬉しく思いながら、その頑張りや充実した生き方を、どこか嫉妬混じりに傍観していた。

そうだ、俺が死ぬ間際だって、確か海外出店も行っていたはずだ。日本の抹茶を生かしたカフェメニューが、海外でウケたのだ。アイディアやビジネスセンスには脱帽する。

「そうか? 正直、接客とか向いてない気もするけどな」

しかし、まだ何もしらない松永は、適当に笑いながら答える。

「ははは、まあ先のことなんてまだわからねえよな」

俺も笑う。

そう、こいつは確かに接客なんてガラじゃない。だから裏方に回ったんだろうが、ひょっとしてこれからまず自分の店舗なども持ったのかもしれない。この頃のことは俺も知らない。

それから、松永がコーヒーを淹れるのをじっと眺めていた。松永も何も言わず、ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、挽いたコーヒーの粉を淹れる。

カップに熱湯を注ぎ、一度カップを温める。丁寧な仕事ぶりだ。誰かの丁寧な仕事を眺めるのは気分がいい。

とても静かな時間が流れた。コーヒーの香りに包まれた無言。お湯を注ぐ音。コーヒーサーバーに、フィルターから濾された黒い液体が滴り落ちる音。

待ち遠しくもあり、この時間が永遠に続けばいいと思うほど、やさしい時間がそこにはあった。ここ数日の会社や別れた妻との出来事、いや、俺がこのあと辿った人生のすべてにおいて、こんな静かに満ち足りた時間はなかったと思う。

「できたぞ。エチオピアのフルーティーな豆をベースにブレンドした。飲んでみてくれ」

サーバーから注がれたカップを、俺の前に置いた。

俺はしばらく目を閉じて香りを嗅ぐ。二日酔いを忘れそうなほど、香りは霧のかかった
頭の中を、まるで風が吹き抜けたように払っていく。

そしてゆっくりと、その液体を口に含む。華やかな香りと、みずみずしい舌触り。パンチはないが、口に含んでほんの少しの間をおいて、口の中で広がるなめらかさは、確かな存在感がある。

そして飲みこんだ後には、不思議な清涼感の余韻があり、しかし、それは決してしつこくなく、鮮やかに消えていく。鼻で、口で、下で、喉で、食道で、胃で堪能したコーヒーが持つ、コーヒー以上の何かが、俺の全身の細胞を震わせるかのように波が広がる。

俺はその至福とも呼べる自分とコーヒーの出合いに感動し、しばらく瞑想するかのようにしていたが、余韻が消えて、次の一口を唇が求める頃に、そのままの感想を松永に伝えた。

「おいおい、いつからそんなソムリエみたいな表現できるようになったんだよ」

松永はそう言って笑って、自分もコーヒーを飲んだ。どこか照れ臭さを隠すように。

松永は知らないが、俺はここから20年以上のキャリアがある。食い道楽で呑み道楽だ。年を取れば色々覚えるのだ。

「うん、いい出来だ」

松永も、自分のコーヒーに納得しているようだ。

その顔は、ひと仕事終えた時の表情。元々あまり感情を面に出さないタイプだから周囲に伝わらないことが多いが、こいつは今、満足している。俺にはそれがよくわかる。

それにしても、美味い。やはり、松永のコーヒーは美味い。天才的だ。脳みそがマッサージされ、心がほぐれるようだ。

心がほぐれたせいか、体も弛緩し、涙腺が緩み、俺は涙が溢れてきた。

松永は俺が涙を流す様子はもちろん見えているのだろうが、何も言わずに、窓の外の景色を眺めながらコーヒーを飲んだ。

「すまん…。俺が、バカだった…」

涙はとめどなく溢れてきた。後悔と感謝が入り混じった感情が、胸の中で渦巻いている。

「俺に、何かできることは、ないか?」

松永は、こんなバカ丸出しの俺に、さらに救いの手を差し伸べようとしてくる。なんてことだ。あの日、松永がやって来たのは、俺を助けようとしたのだ。力になろうとしたのだ。裏切ったこの俺を。

「いや、もう、どうにもならない。仕事も、家庭も、何もかも、ここで一度失うんだ…」

「なにもそこまで…」

「いや、わかるんだ。でも、大丈夫だ。死ぬわけではないし、またそこそこうまくやりくりする」

「……そうか」

自分でも何を言ってるのか…。支離滅裂だ。

「ただ、たまにこうして、コーヒーを淹れてくれないか…」

そう、今はそれだけが望みだ。これからしばらく俺は大変な目に遭うし、一生に独り身で生きてく。でも、このコーヒーをたまに飲んで、先ほどの静かな時間があるだけで、俺の人生はとても豊かになる。

「ああ、それくらい、お安い御用だ」

「あ、いけねぇ、コーヒー、冷めちまうな」

俺は涙を拭いながらカップを持つと、

「大丈夫だ。このコーヒーは冷めても美味い。ゆっくり飲めよ」

松永は落ち着いた声でそう言った。

「へえ、ワインみてえだな。時間の変化で、味わいが変わるなんて」

俺がそう言ってから、松永はカップを持ったまま少し考え込むような顔をして話し出した。

「そう。刻一刻と変化している。化学反応が起きている。食い物とか飲み物も、全部生きていて、変化し続けている。発酵食品なんてそうだろ?時間を置くことで、どんどんうまくなる。タンパク質をアミノ酸に分解して、それが旨味成分となる」

松永はうんちくを語るのが好きだ。こういう時の松永は生き生きしている。以前は忙しい時にこれをやられるとイラついたものだが、今はもちろんそんなこと思わない。

「何事も、時間がかかる。そうだよな。若い頃は、早い結果、効率の良い方法、成果、数字…。そんなもんばかりが大事だと思っていた」

言ってから、俺はこのほとぼりが過ぎてからも、あまりその辺は変わらなかった。効率重視、結果重視で生きていたとすぐに気づく。

「発酵と腐敗ってのは、似て非なるものだ」

松永が、少し硬い口調で言う。

「実は両者の違いはほとんどない。人体にとって有用か、有害かで決まる」

「腐敗、か…」

俺はこの頃もっとも腐敗していたし、今後ももっと腐敗していく。多分、松永は遠回し、俺に何かを伝えたいのだろう。

「なあ、じゃあ人間が腐敗しないためには、どうすりゃいいと思う?」

つづく


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