“群れる”のは好きじゃねぇんだ。
去年くらいからだろうか? 出会いが増えた。
2015年に個人事業者として起業してからは、どうしても「同業者」と絡むことが多かったけど、やはり“異業種”の人たちの話を聞くのは面白い。
色んな人に会って交流するけど、さまざまな哲学や美学、こだわり、そしてこの国の未来への危機感などを持ってる人も多い。(Youtube「真っ当な危機感を持とう」)
さまざまな出会いの中で「漢(おとこ)」と出会うことがある。
性別として「男」のそれではなく、僕が「漢」と書くときは、自らの意思で「成る」男性だ。
彼らは確固たる自己を持ち、情熱とパワーを持ち、かつ愚直とも呼べるような不器用さが同居しているような、そんな印象を受ける。
彼らの特徴は、交流や人脈はあれど「群れない」ことだ。
一匹狼、ではない。協力もするし、ビジネスにおいては共同、協調もたくさんある。
でも彼らは群れない。一人でも悠々とし、一人でも完結した余裕と強さがある。
僕も元々は群れるのは好きじゃない。だけど群れることで、ビジネスを回し合うような世界もあって、その輪の中に入っていたこともある。
定期的にパーティーに参加し、仲間内の出版物やらセミナーを紹介し合い、SNSで楽しそうにしている姿をタグづけして、たくさん投稿する。
往々にして、みんな仲が良い。とても気持ち良い人たちであることは間違いない。収入もあり、そのような仲間たちと過ごし、その喜びと豊かさを分け合いたいという動機で、自分や自分達が豊かになった方法論を教えている。
それは何も悪いことではないし、さんざん目の前で見てきて思ったのは、彼らはそういう関わりが「好き」だし、それを「楽しい」と思っているということ。
僕も、自分がそういうことが器用にできるタイプなのかと思っていた。でも、途中で気づいた。
「ああ、俺はパリピーじゃねぇな」と。
楽しんでいたけど、無理をしながらその輪の中ではしゃいでいた自分がいた。
いつも終わって一人になるとホッとした。「祭りの後の寂しさ」なんてものは皆無だった。「このパーティーから帰りたくない〜」とか言う人もいるけど、そんなこと微塵にも思ったことはない。
だからパーティーが終わり、ホテルに戻り、一人になってようやくリラックスできた。そこでまた一人でBARに行ったり、缶ビール買ったりして飲み直すなんてこともしばしばだった。充分飲んだのに、まったく落ち着かないのだ。
そんな状態だったんだから、「さっさと気づけよ」って感じだけど、なかなか気付けないもので、気づいたのは数年経った後だった。(Youtube「衝撃の気づきを得た」にて)
少しずつ業界と距離を置きつつも、2020年に、コロナがいいきっかけだった。
自分の気質に気づいていた僕は、どんどんそういう輪の中から離れて行った。
「ずっと消えてましたよね?」
と、最近またスピリチュアルジャンルの人たちとも話す機会があるのだけど、そんなことを言われた。そう、確かにそのジャンルのメイン・ストリームのキラキラした、華やかな世界からは消えていた。
正直なところ、収入は激減した。でも、とても「楽」になった。あ、別に生活には困ってない。自由にあちこち行き来しているし。
そんな中で、自分のコミュニティ中心にやってたし、今もそうなんだけど、出会いは増えた。
そこで、群れない漢たちと出会い、語らうことがしばしばある。
「自立」というものを、考えさせられる。
コミュニティの時代。そう呼ばれているし、僕もそう思う。同じ志を持った人間たちが集い、何かを共同創造する。大きな構造だと、どうしてもシステム(仕組み)ができて、効率化して、差別化が起きる。
そうではなくて、もっと小規模で、横のつながりが重視された関係性。
しかし、そこには欠かせないポイントがある。それが「自立」だ。
村づくり、のようなことも、若い人たちがどんどん進めていて、素晴らしいと思う。
そこでは自分のできないことを助けてもらい、自分のできることを提供する。
ただ、観察していたり、色々見聞きしていると、彼らの理念は立派だし、美しいことを言ってるけど、実情は親からの援助に頼っているとか、中心人物のカリスマ性に依存しているとか、まだまだそういう状況も見受けられる。
じゃあどうするのか?と問われても、とにかく何もやらないよりは100倍マシなので、彼らのように実践し、動き出すことはすごいと思う。
ただ、そこに「自立した自己」というものを確立させることを、ひとりひとりの意識や思想として持たないと、ただの傷の舐め合いや、共依存になり、外部と切り離された「イタイ集団」となりかねない。
僕もかつて八ヶ岳山麓で7年間ほど田舎暮らしをしていたが、移住者同士で群れて、地元の人たちとぎこちなかったり、対立してるなんていうのも見聞きしてきた。
お互いが「正しさ」をぶつけるのだけど、御大層な立派な理論を並べても、地に足つけて生きていかない人の話は、全部が上っ面で薄っぺらなのだ。
群れていない漢の言うことは、上っ面じゃないなと思う。薄くないのだ。話す内容以上の覚悟や決意が、言葉の端々にみなぎっている。
誰かのモノマネじゃないのだ。借りてきた言葉じゃないのだ。どこかの自己啓発のような胡散臭い言葉と違うのだ。
古臭い言葉だけど、そこには「仁義」とか「武士道」のような、本来日本人の男たちがこだわってきた「大和魂」を、そこに感じる。
もちろん、僕など彼らに比べたら大和魂を語り、漢を語るにはまだまだひよっこだが、漢に成ろうと思ってるし、漢で在りたいと思っている。
そんな僕も、なんらかの「コミュニティ」をやっていたりして、確実に自分の仲間、はできている。しかし、群れているわけではない。あくまでも、自己を持ち、自立したものを目指す。
群れはしない。でも、同じ志があるのなら、共に未来を創りたいと思う。
漢男と歌っているが、女性でも同じだ。自立した意思を持ち、孤独を楽しめる女性なら、そこには「大和魂」があるし、さらに女性らしさを伴った「大和撫子」を、サムライは命懸けで守りたいと思う。
今こそ、手を取り合うべき。それこそが、真のコミュニティの時代。
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