ジェンダー・フリーという“正義”(前半・無料) 分断のための“問題提起”に惑わされるな。(後半)
ジェンダー・フリーという正義(前半・無料)
こんなニュースを知ってるだろうか?
いろんな意見があると思います。なので今日のnoteはとてもデリケートな話題です。
なぜデリケートかというと、確かにこの「性差」の問題で苦しむ人がいるからです。
「苦しむ人たちを助ける」というのは善意であることは間違いないですが、この「善意」や「正義」は、時として人、いや、個人というより集団としての人々や社会を、大きく動かし、それによりまた『偏り』が生まれ、新たな問題を生み出します。人類の歴史にはそういうものがたくさんあります。
性的マイノリティー。つまり、ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー。LGBT,ってやつですね。
確かに、人間は多様性があり、さまざまな性質があり、そういう人々がいます。「セクシャル・マイノリティー」と呼ばれ、今は社会的な話題になり、ディズニーのアナウンスに限らず、至る所で「性差別を無くそう」という動きがあります。
日本ではそこまでではありませんが、アメリカでは、小学校の教育でも、かなり力を入れているようです。
男女、を分けてアナウンスしない、というのも、分けてアナウンスすることで、セクシャルマイノリティーの方々が傷つくから、という気遣い(?)なんでしょうけど、世界的に「男女差をなくす」という動きは、1970年台の「ウーマン・リブ」から、「男女同権」を求める運動から、ずっと続いていると思います。
ただ、あえて反論をあることを覚悟で言わせていただくと、
「なんでも平面化することが解決なのか?」
ということです。
セクシャル・マイノリティーは、いるのは事実です。どんな世界にも、マジョリティ(多数派)があり、マイノリティー(少数派)はいます。必然的に、マジョリティーの影響力が強いです。現に民主主義だって、原則「多数決」をとっています。
もちろん、特に政治という利権の絡む場での多数決という決議には非常に疑問に思うところがあります。マイノリティーの意見が反映されない社会は、人として、社会として未熟な段階だと思います。
ただ、マイノリティーの人々がいるというのは事実であり、それを綺麗な言葉で取り繕ったからと言って「いなくなる」ものではないです。
「差別」による、否定や攻撃、マイノリティーの人々の人権や尊厳を迫害することは、それこそ社会的に未成熟な現れでしょう。実際に、いじめをする人というのは、精神的に問題や未熟な面を抱えているものです。
だから僕ももちろん性差別なんて馬鹿げていると思いますし、僕も若い頃によく新宿2丁目に飲みに行ったり、ゲイの友達とか、当時「オカマ」「ニューハーフ」と呼ばれた夜の街の愉快な人たちと交流があり、そこに差別的な意識はもっていなつもりです。
ただ、セクシャル・マイノリティー以前に、生物には「性」というものがあります。それは「事実」です。世の中には「男」と「女」がいて、通常は男と女は惹かれ合い、結ばれ、新たな命が育まれますが、中には「そうではない人」がいるというだけです。
男女差、というのはあります。ただ、社会的に有利や不利が生まれるのがおかしいというだけで、どうしたって「差」はあります。
男性100人と女性100人を集めたら、平均身長は男性の方が高いです。ただ、ひょっとしたらその女性100人の中にバレーボール選手の女性がいて、一番背が高いのは女性のその人かもしれないけど、男性の方が平均身長は高いです。そういう「差」です。
体の形だって違います。性器の仕組みも違います。これは「事実」であり、それを「差」と呼ぶのはおかしいけど、一方から見たら「差」です。
差はどちらかが「劣ってる」と思ったり「優れてる」と思う“意識”から始まりますので、人間にはどうしてもそういう傾向があるのはある種の宿命なのかもしれません。
しかし「大きいのが偉い」とか「小さいのが劣ってる」という概念で、“得られる権利”が違ってしまった場合は、何度も言うように、社会的に、人間的未成熟であり、発展途上国では宗教がらみの問題も多いから簡単には言えませんが、女性の方が不自由を被っている場合が多いのもまた事実であり、そこは変えていく方向へ動いて然るべきだと思います。
ただ、「平面化」しようとしているような動きに対して、僕は強烈な違和感を感じています。
なぜなら、男と女は違う、という事実があるからです。
実はまだ読んだことはないのですが、「ブレンダと呼ばれた少年」という書籍があります。
双子の男の子が産まれて、ユダヤ人なのかな?産まれたらすぐにおちんちんの皮を切る「割礼手術」ってのがあるんだけど、双子の片方がペニスの手術に失敗し、ペニスを失ってしまいます。
困った両親は、医者を訪ねます。その医師は「性差別」の問題に熱心な医師で、「男女は同じ」という持論を持ち、その男の子の睾丸も取り、「女性として育てる」という提案をし、両親も同意します。
「人は女性として育てれば、女性になる。男女の差は環境で決まるのだ」という理論が、実は大真面目に議論され、社会的な実験もありました。
この双子の子は、「ブレンダ」という女性の名前を与えられて育てられますが、生殖器がなくて、「お前は女」と言われ、ピンクの服を着せても、その子は泥んこになって駆け回り、乱暴な遊びを好み、男の子のような仕草をしてします。
詳しくは「こちら」をご覧ください。ちなみにその子は大人になってから、「男性」としての名前を人生を取り戻しますが、最終的には自殺してしまいます。
社会的実験としても、男女をまったく同じ環境で育てた実験というのはあるようですが、やはりどんなに環境で男女差をなくしても、男と女は違う、という事実は覆せず、男は男らしくなり、女は女らしくなりました。それは環境や制度や法律の問題ではないのです。
ただ、今のは「平均値」の話です。
男性の中でも、女の子っぽい男の子もいれば、女の子の中にも、男の子のような女の子もいますし、恋愛対象が同性になる人もいます。それが「セクシャル・マイノリティー」であり、ごく一部、そういう人がいるのです。
LGBTで、マイノリティーの社会的に受容する、というのは人類の発展の中で、寛容性や多様性を示す進歩だと思うし、僕も大賛成です。ゲイの友人とか、とても面白い連中だったし、それはただの個性なので、差別の理由になどなりません。個性は尊重されるべきです(有害なものはそれ相応の対応は必要)。
ただ、冒頭にリンクを貼ったディズニーの合うアナウンスのように、どこか“偏り”の側面があると思うのは僕だけでしょうか?
そしてこんな僕は「LGBT否定派」や「性差別者」なのでしょうか?この文章をここまで読んでももしもそう思うのなら、文章リテラシー以前に、人間としての「極端な偏り」があると言いたくなります。僕はそんなことは一言も言ってない。
アメリカではこの教育が盛んと書きましたが、一部では子供自身が「僕は男じゃない!女だ!」と言って、自分のペニスを傷つけたり、女の子が「私は男だ!」と言って、例えば水着を拒み、パンツを履こうとして、それを両親が辞めさせようとすると、それを第三者の通報で「虐待」とみなされ、子供は育児所へ行き、両親から法的に引き離される、という事例も起きている聞きました。
あと、有名どころでは、「元男性の女性アスリート」が、女性の競技に出て好成績を収めるとかも、違和感がありますが、これに対して疑問をぶつけただけで「性差別者」のレッテルを貼られるので、デリケートな話題なので、影響力を持つ人ほど取り上げづらい話題になっています。
(トランスジェンダー・アスリートの中では「男性ホルモンや女性ホルモンの割合で、男性か女性か決まる、ペニスは関係ない」というような発言もあるらしいが、ホルモン注射で変わってしまうんでないの?と、素人として素朴な疑問を持つのだが…、どうなんでしょう?あ、こういうこと書いただけでジェンダー差別の時代遅れ??)
トイレも「ジェンダーレス」化が進むアメリカのどこかで、「私は女性だ」と言い張って、女性トイレに入ってレイプ事件が起きたともあります。イギリスでも女子収容所に移されたトランスジェンダーの男が、女子受刑者をレイプした、などという事実もあります。(こちら)
もちろん、今あげたのは極一部の人の話題です。全員が男女を偽ってレイプなどしませんし、自分のペニスを切ろうとする男の子も極々稀なケースです。
しかし、『LGBT=善=良いこと』という風潮のせいで、逆に話題にしずらくなったり、「当たり前の意見や事実」が言いづらくなる空気は、おかしいと思っています。違和感があります。
あなたはどう思いますか?これはみんなで考えるべき問題です。なぜなら人間は必ず「性」を持っているからです。生物上はもちろん、戸籍上、社会的、認知的に。だから避けては通れない話題です。
後半は、このLGBT問題は表面的なもので、その裏側、実態について、考察していきたいと思います。陰謀的な話や、社会の裏の話もあり、長文になります。
分断のための“問題提起”に惑わされるな。
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