煙たい部屋で。(掌編小説)
「リュウ」と、紹介された。「劉」と書くのか「龍」なのか、漢字や正式な名前は知らない。ただ、リュウと、カマタさんを通して紹介された。リュウは、僕が生まれて初めて、「恐ろしい」と感じた人間だった。
*
六本木から、西麻布方面に行ったところにマンションがあり、僕は定期的にそこに行っていた。そのマンションに住んでいたのは、カマタヨウジというプロのカメラマン。写真集も2冊ほど出している映像作家のアーティストだ。僕よりひと世代上の業界人なら「名前くらいは知ってる」という位置付けの人だ。
僕はカメラスタジオの仕事をしながら、短期でカマタさんのアシスタントのようなことをすることになっていた。アシスタントと言っても、ほとんど使いパシリで、大したことがあったわけではない。
ただ、その仕事が終わった後も、僕はカマタさんと親しくしていて、プライペートで、よく彼のマンションに訪れていた。
カマタさんは、自身のアーティスト活動とは別の収入を持っていた。当時、一部の人々の間で流行っていたケミカル系ドラッグのバイヤーだった。
もちろん違法行為だ。一時期はそれなりに名の売れたアーティストの、落ちぶれた姿だったのかもしれないが、僕自身、自分の活動に行き詰まり、半ば自暴自棄になっていた頃だったので、そんな退廃的な香りを漂わせたカマタが嫌いじゃなかった。
そして、彼も僕のことを妙に気に入ってたのか、よく部屋に呼ばれて、何するでもなく、ダラダラとマリファナを吸いながらいろんな話をした。
女の話や、彼の昔の逸話や、今の業界のこと、芸術論を語ることもあったが、今思うと、まるで覚えていないし、おそらく、最も“生産的な時間”というヤツから程遠いものだったと思う。カマタさんは、つまりはそういう人だった。空っぽで、薄っぺらで、中身がない。そして、それはそのまま、僕自身のことでもあった…。
マリファナ特有の、酔っているようで、頭の芯が冷えて、全身の感覚が少し鋭敏になったまま、六本木のクラブに行って、ナンパをしたり、ビール片手に朝まで踊りながら過ごした。
そんな時にリュウに会った。リュウはカマタさんの扱うケミカルドラッグの仕入れ先、いわば“問屋”であり、以前からカマタさんから話は聞いていた。
名前の通り日本人ではない。日本にはビジネスをしに来ている。それも、違法で、大きなお金が動くビジネスで、人の命も、そこでは安い。
「まだ若いのに、大したやつだよ」
カマタさんは、そう言っていた。感心するように話していたが、その言葉の節々には“畏怖”するようなニュアンスがあった。
それもそのはず。リュウは、28歳にして、マフィアの日本統括のおいてはそこそこの立場にあって、手下も何十人といて、運転手付きのBMWで移動していた(たまに一人でベンツを運転していた)。カマタさんのような、ズボラな性格で、そして半分世捨て人のような人でなければ、気安く話しかけれないだろうと思う。
ちなみに28歳といえば、当時の僕の3つか4つ上で、ほぼ同世代だ。僕はもちろん運転手付きのBMWどころか、終電過ぎて遊び呆け、始発まで漫画喫茶で過ごすような若者だった。
生まれた国はもちろんだが、とにかくいろんな境遇の人間がいて、いろんな人生があるのだと思った。
**
ある暑い日だ。カマタさんのマンションに着くと、すでに彼はそこにいた。彼は窓辺にもたれ、僕の方を一瞥もせず、携帯電話で誰かと話していた。何を話していたのかはわからない。中国語だった。
「おお、来たか。彼がリュウだ。前に話しただろ?」
カマタさんがデスクの前から僕にそう言った。以前から話は聞いていたが、予想外過ぎて、何を思えばいいのかわからないくらい、「はぁ」と。すっとぼけた声を出しただけだった。
僕は一旦座る。座ってから、少し緊張を感じた。屋外の熱気のせいで汗ばんでいた体が、部屋の効きすぎた冷房はもちろんあったが、彼の存在によって一気に火照った体が冷えた。
緊張と書いたが、正直に怖かったと告白しよう。昔、ヤンキーのおっかない先輩の家に遊びに行った時の緊張感の、さらに数段階高いレベルの緊張だ。
彼の電話が終わり、こちらを振り向いたのを見計らい、僕は立ち上がり、緊張しながら挨拶をした。
「こんばんは。カマタさんにお世話になってます」
「リュウだ。ヨロシク」
彼は日本語でそう言って握手を求めてきたので、僕は握手をした。彼の手は熱いと感じるくらい熱を帯びていたが、まったく湿気を感じれなかった。
僕も痩せた体型の優男だが、リュウも同じくらい細く、端正な顔立ちをしていた。背も高く、アジアの男性モデルと言われたら、誰もが信じるだろう。
「まあ、楽にしろよ。ビールでも飲んで待っててくれ。この仕上げ終わったらオレもそっち座るから」
カマタさんは部屋の一番奥で、パソコンのモニターに向かいながら大きな声で言った。映像編集の仕事をしていた。
僕は自分自身がリラックスするためにも、いつも通りに振る舞おうと思った。アナログプレーヤーで、スティービー・ワンダーの古いレコードをセットしした。
ワンダーの「 You Are The Sunshine Of My Life」の甘い歌声が流れると、僕は多少リラックスできた。それから冷蔵庫を開け、ビールを取り出す。ちなみになぜかカマタさんは日本のビールを嫌っていた。だから彼の冷蔵庫には、クアーズ、カールスバーグ、ハイネケンなどの小瓶がいつも入っていた。
「リュウさんも飲む?」
と僕が尋ねると、
「ああ。リュウでいい」
と言って、胸ポケットからガサゴソと何か包みを取り出していた。
彼の「ああ」という言葉は、ビールを飲むことに対してのYESの返事なのかわかりかねたが、とりあえず僕はハイネケンを2本取り出し、栓抜きで栓を開けた状態でテーブルに持って行き、ソファに座った。
彼は何も言わずビールを手に取り一口飲み、それからハンカチのような布に包まれたタバコを取り出し、口に加えた。よかった。ビールを飲んでくれて。
彼はタバコに火をつけて、煙を燻らせる。見た目から多分そうだと思ったが、それはタバコではない。マリファナだ。
彼は胸いっぱい煙を吸って、目を閉じて息を止める。そして、持っていたマリファナタバコを僕に差し出した。僕もそれを吸い込んで息を止めた。
吸い込んでからわかった。ただのマリファナではない。“チョコ”だ。チョコとは“ハシシ”隠語で、「大麻樹脂」のことだ。
「オマエ、なにをヤッテル人か?」
僕が煙を味わった後、リュウがそう話しかけてきた。僕はカメラマンだと答えた。「プロか?」と質問されたので、アルバイトと掛け持ちしながら、スタジオで働いたいたり、カマタさんの仕事を手伝ったりして勉強していると答えた。
「リュウは?何をしている人なの?」
今度は僕から、リュウに恐る恐る尋ねた。正直、好奇心はあった。ヤクザではなく、もっと広域なマフィアだと知っていたが、直接聞いてみたかった。
「トリヒキをしている」
彼は迷うことなくそう答えた。違法薬物をあちこちに卸しているのは知っていたが、取引という言葉が出たので少し意外だった。
「取引?へえ、何か貿易みたいな?」
「トリヒキだ」と彼は言う。貿易、という日本語がわからなかったのかもしれない。
「昨日は名古屋の港でトリヒキがあった。今日もこの後トリヒキ。東京にも海がある」
「港?」また、僕は興味をそそられる。「何を、取引するの?」
当時の僕は、そういうところがあった。怖いもの見たさで、ぐんぐんと入っていくのだ。
「色んなモノだ。色んなこと、港で起きる」
その言い方は、それ以上は聞くなよ、と忠告しているようだったので、僕はそれ以上言及を避けたし、さすがに怖くて聞けなかった。
そこで会話はなくなった。カマタさんは仕事に集中していた。リュウはビールはチビチビ飲むだけで、チョコをふかし、煙を吸い込み、それを味わっているようだった。僕はなんとなく間が持たず、ビールを速いペースで飲んだ。
「吸え」
3度目くらいに回ってきた時に、僕はそのハイペースに追いつけず、
「いや、ちょっと待って。ゆっくりでいい」
と断ったが、
「吸え」
と、もう一度、同じトーンで言ってきたので仕方なく僕は受け取り、煙を吸った。断れない、冷たい力強さがあった。
僕が煙を吸い込んでいる間、リュウはじっと僕の顔を眺めていた。その時に目が合った。いや、さっきからなんでも視線は合っている。でも、その時初めて、彼の目の輝きが、まっすぐに僕の目の奥に入ってきた。
僕は生まれて初めて、人に対して身震いするほどの冷たい恐怖を感じた。そして直感した。
(彼は、オレのことをなんの躊躇もなく殺すことができるだろう…)
そして、その瞬間に、僕が彼に殺されるイメージすらあった。
リュウは銃を持っている、とカマタさんから聞いたことがあった。しかし、銃で撃ち殺されるイメージではなくて、もっと身近なもの。例えばボールペンとか、クレジットカードとか、陶器の灰皿とか、そういうものを使って、僕は殺されると感じた。そして彼はその頃にみじんも表情を変えないだろうと。
チョコ独特の、乾燥マリファナとは違う濃厚な煙を肺に溜め込んで息を止めていたが、彼に見据えられて息ができなかったこともある。蛇に睨まれたカエルとは、こんな感覚だろうか。
あまり、褒められる生き方をしてこなかったせいで、これまでに何回も“アブないヤツ”に会ったことはある。ムショ入りするくらいの知人もいたし、もっと精神的に破綻しているような人間を知っている。
しかしリュウはそういう次元にいなかった。彼はこれまでにきっと、何人も何十人も人を殺しているのだろうと思った。理由はわからない。でも、それを確信できた。
彼がじっと見つめてくるるので、僕はなんとなく、笑ってごまかして、大麻樹脂のタバコを返した。彼は僕の目を見つめながらそれを受け取り、自分の口に持っていった。
目の輝き、と書いたが、訂正しよう。“輝きのない輝き”だ。普通、誰しも目には光がある。カマタさんのような人生に絶望したような中年のドラッグ中毒者ですら、目の奥には独特の鈍い光がある。
しかし、リュウの目の奥にあるのは闇だ。真っ暗で、底無しの闇が広がっていた。一体、どうやったらこんな目つきになるんだろう。何をやったら、どんな風に人生を歩めば、こんな目つきになるだろう。
「ふー、終わった終わった。オレにも吸わせてくれよ。ビールも持ってきてくれ」
カマタさんが、僕らの沈黙を破ってくれたので、僕は救われた。しばらく、息をするのを忘れ、心臓を動かすのも忘れていたかように、
「あ、今、持ってきます」
と、立ち上がって冷蔵庫に向かった時に、立ちくらみとひどい動悸がした。気がつくと部屋は音楽がなかった。ずっとレコードがかかっていたことも忘れ、アルバムのA面が終えていたことにも気づかなかった。
僕はビールを取り出す前に、レコードを裏返し、針をセットした。名曲「迷信(Superstition)」のファンキーなフレーズが部屋に響く。
その後、カマタさんが何か適当なことと喋り、封筒を手渡していた。多分、お金が入っている。数十万単位のお金だろうと思った。
お金を受け取ると、リュウは立ち上がり、僕に一瞥もくれずに部屋を出て行った。正直、あまりにスムーズに出て行ったので、彼が帰ったとは思えなかった。
彼が出て行って数分してから、
「帰ったん…ですよね?」
と、カマタさんに聞くと、
「ああ。ブツはもらったからね。今日はこれから仕事だって言ってた。暇だったら、たまにクラブも行くことあるけどね。アイツ、モテるからなぁ。日本語の他に、英語もペラペラだし、アイツと一緒にいるとナンパするのが楽だ」
「怖かったっす」
カマタさんの話をよそに、正直に僕は漏らした。言わずにいられなかった。さっきは、本当に怖いと思った。
「ああ、確かにな。かなりヤベぇやつだよ。あっちの世界は、日本のヤクザと違って実力主義だからね。あの若さでかなりのシマを任されているらしいから、そうとうえげつない事もやってきたんだろう」
「絶対、人とか殺してますよね。そんな気がしました」
「ああ…。そりゃそうだろうな。そうじゃないと上には上がれないと思う。まあその辺はさ…。なんつーか、もうオレらと感覚が違うんじゃないかな?子供の頃からそういう世界にいたって言っていたからね…」
お調子者で、おしゃべりのカマタさんも、そう言ってからしばらく黙った。なぜかスティービー・ワンダーの曲が、白々しく聞こえた。
子供の頃から…。一体、彼はどんな闇を生きてきたのだろう…。そして今も、まだその闇の中にいる。
「ま、気楽に行こうぜ!大丈夫だよ。ちゃんと金払ってるし。距離感保てば悪いやつじゃねーよ。いや待てよ、…悪いやつ、なんだけど、オレらにとって、悪いやつじゃない…っつうことかな」
カマタさんはそんなことを言って笑って、ビールをグイッと飲む。それから「ま、どっちでもいいや。へっ」と、いつものやる気のない表情をした。
仕事も下請作業ばかりで、過去の栄光には人一倍こだわって、プライドが高くて、奥さんには逃げられて、子供には二度と会えなくて、友達と呼べそうな友達もあまりいない、そんな彼特有の、人生に投げやりな、卑屈な嘲笑。
その夜を境に、僕はカマタさんのマンションに行くのをやめた。
一度、誘われて断った。その時は気まずかったが、運良くというか、カマタさんは日頃の不摂生が祟って、重度の肝臓疾患になり、入院することになったのだ。しかも、3ヶ月も。
当然、入院中は遊びに誘われることもなく、退院してからも、彼は酒も飲まず、真面目にコツコツと仕事こなしていると、共通の知人から話を聞いた。
僕は彼に何も言わず、携帯電話の番号と、メールアドレスを変えた。僕自身、僕のために心を入れ替えなければならないと思っていたし、そのためには、彼は僕の人生にはもう必要なかったのだ。
あれから随分の月日は流れた。僕は真っ当な光を浴びる世界を生きて、おかげさまで、自分の特技を生かした職業につき、充実した日々を送っている。家庭にも恵まれた。
しかし、時々思い出す。あの煙たい部屋で見た、リュウの、真っ暗な瞳を。一寸の光も刺さない、底無しの井戸のような黒目を。
闇の世界を生きる人の大半は、望んでそうなったのだろうか?と思う。子供の頃から、彼は闇の世界にいたという話を漠然と聞いたが、あの瞳を見ると、人生の途中でやさぐれて闇の世界に落ちたのではないとわかる。
そうなると、それは予め決まっていたことだったのかもしれない。彼があの生き方をして、トリヒキをすることは、彼が望んだことではなかった。
僕は今の自分を気に入っているし、自分の家族や仕事も愛しているが、それは僕が望んで得たようで、たまたま、運良くそういう環境にいるだけなのかもしれない。
そんなことを考えると、やや無力感を感じつつも、今の境遇に感謝せざるえなくなる。そして、闇の世界にも、光が当たり、温まることを祈っている。
終わり
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言葉を紡ぐ、心を繋ぐ
アーティスト、作家・大島ケンスケによる独自の視点からのエッセイや、スピリチュアルなメッセージを含むコラムを、週に3回以上更新していきます。…
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