見出し画像

探求文庫  #69〜70 (過去記事)

2021年の8月から始めたnoteサークル(現在はメンバーシップという名称に変更されたけど、サークル(輪)という言葉が気に入っている)、「探求クラブ」内での「探求文庫」。

探求クラブ内でも、「過去記事が全部掲示板をスクロールしてさかのぼるので読みづらいとご指摘をいただき、過去記事もすべてマガジンにまとめることにしました。

過去のもので、途中まではメンバーでない方も読めるようになっています。もしご興味ある方は、掲示板を読める「探求読書コース」もあります。

_______________

探求文庫#69 すべて愛のギフト、愛と奇跡への道具

(マスクの話題がありますが、この記事は2022年の記事です)

こんにちは。今日は頭皮と内臓の健康のために「ヘナ」をしました。今、ヘナを湿布しながらこれを書いています(笑)。ヘナは白髪染めに使う方が多いですが、とても優れたデトックスツールです。僕は白髪は一本もないけど、定期的にヘナをします。すごくすっきりしますよ。

さて、ついつい普段僕らがテーマに上げるような、「精神世界」とか「スピリチュアル」なことを意識していると、どうしても「世間」とか「一般常識」からは逸脱した価値観になりがちであり、実際、それらの範疇には収まらないことが多いです。

しかし、人は一人で生きているわけじゃないし、こうして何らかのコミュニティ内はともかく、一歩外を出ると、社会というものが存在するのが人間世界。

そこでの「平均的」な概念や価値観が、常識という、目に見えない空気感を形成します。

そんな常識を持つ社会に対して、こちらの信念なり信条なりを貫き通すことは、時には必要かもしれませんが、ムキにならないでもいいし、あえて波風立てる必要もないと思います。

例えばマスク一つにしても、僕自身は「ウイルスは2次元生物なので、空気感染はしない」というスタンスを取っているので、コロナ(という恐怖の病があったとして)感染予防には役に立たないと思っています。だから2020年の最初の緊急事態宣言の頃とかは、あえてマスクをしないで歩いたりしてました。マスク不足だった、というのもありますけどね。

しかし、途中でムキになっている自分に気づき、人の多い場所とか、公共の場ではマスクをするようにしました。基本的にはマスクは好きでないので、外ではつけません。あ、最近は花粉症でつけてましたけどね(笑)

さて、僕のこの行為は、人目を気にする「恐れの行為」なのでしょうか?

どう思いますか?

恐れの選択をせず、愛の選択をする、をモットーに生きているので、自分の言動には逐一チェックします。「これは愛か?」が、常に僕の中心的な問いかけです。

僕は自己愛や、自分のこだわりよりも、「ノーマスクの人に本気で恐れる人たちがいる」という事実があるので、その人たちを怖がらせたり、不快にさせないために、人混みではマスクをつけるようにしました。

ただ、街を歩くくらいではつけません。その辺が僕のバランス感覚です。自己愛と他者への愛。自分の考え方と、人様の考え方。常にバランス。調和。我慢やストレスにならないよう、でもお互い快適で過ごせるよう。

ちなみに、小さな子供にマスクをさせるのは馬鹿げていると思いますが、それはその子の親なり、共同体の教師たちの判断なので、こちらには干渉する権利はないけど、せめて僕は乳児や幼児の前では、たとえ屋内の場所でも、目が合ったりしたら、マスクをずらしてにっこり笑顔を見せたりします。子供には、大人の楽しそうな顔を見せるのが何よりの教育だと思うからです。

さて、ちょっと話題の方向性を変えます。

「スピリチュアルは理解されない」とボヤく方が多いですが、それは「常識」とどれだけ逸脱しているかの度合いによっては、仕方ないことです。

「思考は現実化するから、楽しいことを選択する」
「宇宙にオーダーすれば願いが叶う」
「〇〇神社の神様が私を呼んでる!」
「お金は使えば入る!」

とか言ってたら、そりゃ非常識ですよ(笑)。何を思うのかは自由だけど、そこは「ちょっと世間様とはずれている」という自覚はあった方がいいです。もし、それがないのだとするならば、周りがまったく見えておらず、それは意識レベルがかなり狭いという証拠でもあります。

まあ、今のは極端なスピリチュアル(?)ですが、僕が普段伝えている内容も、人によっては「非常識」とか「馬鹿げてる」思うかもしれません。「神」とか「宇宙」と言っただけで嫌悪感を示す人もいるでしょう。「目に見えない世界」を扱う以上、それは仕方ありません。

しかし、自分のスピリチュアルな信条が理解されないことに対して、
「目に見えない世界を信じてない人たちがおかしい」と、どこかマウント気味な思考を持つ人がいるのも事実で、それは大変幼稚な思考でしょう。

何が言いたいかと言うと、やはりこれも「バランス」感覚なのです。

出会う人が「目に見えない価値観を大事にしている人」かどうかは、その人の信条なので、そこに偉いも偉くないもないし、こちらの価値観を押し付けるのも、もちろんあちらの考えを押し付けられるのもおかしいです。

しかし、わかり合いたい人とは、そこで「対話」をしないとなりません。でも、そうでなければ、そこはあえて関わる必要はないでしょう。そこにスピリチュアルな価値観を要求したり期待するのは、エゴイズムです。

バランスを取る。調和を求める。そして、双方心地よい関係を過ごす。これって「愛」です。

この愛は「礼」でもあります。礼とは愛の行為が形になったものです。

しかし対話をしなければならない相手を、ただその場限りにごまかし合うのなら「恐れ」です。恐れの選択は、恐れの現実を創造し続けますので、時には勇気を持って、自分の考えをはっきりと述べる必要があり、誰かの話にじっくりと耳を傾ける必要もあるでしょう。

今、世界は分裂傾向であり、二元化、二極化しています。「常識」という概念の線引きは、常に不安定です。そこで「常識を守れ」ということではなく、この常識という概念が、自分のバランス感覚や、自分と相容れない人たちの「礼」と「愛」を学ぶ道具になる、ということです。

我々に起こること。それはすべて愛のギフト。愛と奇跡への道具でしかありません。

ここから先は

1,701字

この記事は現在販売されていません

サポートという「応援」。共感したり、感動したり、気づきを得たりした気持ちを、ぜひ応援へ!このサポートで、ケンスケの新たな活動へと繋げてまいります。よろしくお願いします。