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「大学いも」(短編小説)

 『大学いも』


「ちょっと、そんなに早く歩かないでよ」

 母は息を切らしながら、オレにそう訴えた。

 オレは何も言わず、母が追いつくのを待つためその場に立ち止まる。

 親戚の葬式があり、田舎に帰省していた。年に一度は、妻と娘を連れて帰省しているが、一人で実家に来るのは10数年ぶりだった。

 実家の前の坂道をこうして歩くのは久しぶりで、背中が汗ばんでいる。

 昔はこの坂道を下って、毎日学校に通ったし、母も毎日、家族の食事を用意するために、この坂道を通り買い物に行っていた。しかしオレはまだしも、年老いた母にはこの坂道を往復するのはキツイだろう。

 だから今では、母がこの坂道を下る事はあまりない。食料品などは定期配達便を頼んでいるし、妹夫婦が近くに住んでいるので、妹婿のカズオくんが何かと用事があるたびに、車で母を送り迎えしてくれのだ。

「駅前、また変わったな」

 オレは坂道の下に広がる海を見ながら、そんな事を言った。そんなとりとめのない会話でしか、母との間が持たない。二人で時間を過ごすことが、何とも居心地悪く感じる。いつかそんな風になってしまったのかは覚えていない。

「そうなのよ」やっと追いついた母が、ハンカチで額の汗を拭いながら言う。「ほら、松岡さんの所も、旦那さん心臓悪くしたでしょ?」

「したでしょって、そんな話知らないよ」

 母はいつもこんな感じで話す。それが昔から妙にオレをイラつかせた。

「あら、言わなかったっけ?それでね、息子さんもコッチにいないし、お店閉めちゃったのよ」

「ふーん」

 とオレは言って、また坂道を歩き出す。一応、さっきよりは歩く速度を弱めて。

「あら、ちょっと待ってよ」

 母もオレの後を追うように、坂道を歩きだす。

 オレの後についてくる母親を見て、自分がこの坂道で、母の背中を追いかけていた頃を思い出してしまった。

「お父さんがいた頃はね、車があったから楽だったけど」

 父は数年前に他界していた。

 仕事人間で、あまり家にいない父だったが、死ぬ時も職場で心臓発作だった。最後まで前のめりで死んでいった父だった。

 母はそんな仕事人間の父に振り回され、いつもオレに愚痴ばかりこぼしていたのだが、この頃になって、やたらと父とのいい思い出ばかりを語りたがる。

「そんな事言ったって今更仕方ないだろ。でもカズオくんが親切にしてくれるんだろ?」

「そりゃそうだけどねぇ」

 母は下を向きながら、常に膝とか腰とかに手を置きながら、ゆっくりと、一歩一歩力を込めて歩く。オレの手を引いて、軽やかにこの坂道を歩いていたのは、もう40年近く昔の事なのだ。

「でもカズオくんってセカセカしているでしょ?こっちまで急がされるみたいでね。いつも明子が頼んでくれるけど、やっぱりね」

「せかせかって」オレはうんざりしながら言う。「向こうだって仕事があるんだ。それをなんだよ、その言いぐさは」

 母のこういうところがすごく嫌だ。感謝の気持ちがないのだ。

「正ちゃん」母は話す。一秒と黙っていられないのだ。「東京は大変じゃないのかい?新しい仕事は大丈夫かい?」

 やれやれと、ため息をつく。

「母さん、順調にやってるよ」

「だってあんた、前の会社、あんなに頑張ったのにリストラなんてねぇ…。今の会社じゃお給料も下がったんだろ?」

 母には、リストラも転職も言いたくなかった。妻が話したのだ。それ以来、毎回この話題だ。そして、次に来る話題は決まっている。

「こっちに来ればねぇ。私も安心だし…。大介叔父さんの会社なら人手が足りてからいくらでもあるしねぇ」

 俺は無視して、足を早める。

「家賃だってかからないんだよ?」

 母の声が背中に遠のくのを感じながら、オレはうんざりした気持ちで坂道を上る。

 *** 

「大学いも。正ちゃん大好きだからね」

 ここ数年はやっと量を調節するようになったが、それでも毎年毎年、母はオレが帰郷するたびに食いきれないほどの大学いもを作って待っている。

「おいしい!おばあちゃんの大学いも大好き」

 娘の美香も、小さい頃はそう言って喜んでいた。

「母さん。オレ今はそんなに甘いもの好きじゃないんだ。去年も一昨年も言ったよ?いくらなんでもこんなに食べ切れないだろ?」「でもほら、美香ちゃんだって食べるし、あんたの大好物だったじゃない」

「だから、それは昔のことだろ?美香だってこんなに食べられないよ。虫歯にする気か」

 オレがそんな事を言うたびに、母は不思議そうな顔をした。どうしてオレがそんなことを言うのか、理解できないとばかりに、そして最後は悲しそうな顔をした。

 その顔を見ると、まるでオレの方が悪い事をしてしまったかのような、そんな気分にさせられる。

 ******

「私の家も似たようなものよ。いまでもお兄ちゃんが実家に帰ったら、母さんたら絶対コロッケ作るもん。あんたの大好物でしょって」

 妻はそう言うので、オレも適当に相槌を打つ。母親とは、そういうものなのだろうか?息子の大好物とは、母にとって、子供との絆を守る砦なのか?それとも、オレがただ単純にひねくれているのだろうか?

 そして今日もまた、家には大学いもがたくさんあって、帰りがけにそれをおみやげとして持たされるのだろう。断り切れないオレが、文句を言いながらも、それを受け取る。

 ***

 しかし、母を許せるようになった一番のきっかけは、この『大学いも』だった。

「お母さんに申し訳ないわ。せっかく作ってくれたのに」

 妻はそう言った。

「ああ、うっかりしていたよ。悪いことをしたな」

 オレはそう言ったものの、空港の待合所の椅子に、大学いもの入った紙袋を置いてきたのは、実は故意にやった事だった。

 あれはまだ美香が四歳か五歳の頃だ。

 例によって大量の大学いもを『みやげ』に持たされた。しかし、美香が帰りがけに熱を出したので、こちらはそれどころではなかった。

 幼い子を連れての実家への三泊旅行は、当時は何かと大変だったのだ。職場への土産もある。それで病気の娘をおんぶやら抱っこしながらの道中なのに、風呂敷包みの大量の大学いもを持たせようとする母の神経に、オレは怒りを覚えながら拒否したが、押し問答をするに疲れた頃に、妻が結局大学いもを受け取った。ただ、風呂敷だけは勘弁してもらい、紙袋にしてもらった。

 オレはその邪魔な荷物を投げ捨てるタイミングを計っていた。駅や、コンビニのゴミ箱を見るたび、それを捨てようとする気持ちと、それを押し留める葛藤と戦っていた。

 妻には何も言わなかった。きっと反対するに決まっている。基本的に妻は、まだ使える物は、今後使う機会など永久になさそうな物だとしても絶対捨てないし、食べずに腐らせると分かっていても、現時点で食べれる物は絶対処分しない。そういうタイプだ。

 だからオレは飛行機の搭乗のどさくさに紛れ、大学いもの入った紙袋をワザと忘れてきた。

 しかしオレは飛行機の中で、せいせいした気持ちよりも、なにか取り返しのつかないことをしてしまったような後ろめたさで、胸が張り裂けそうになった。熱を出して眠りこける娘を強く抱きしめたのは、自分の胸に開いた空洞を埋めるためだった。

 その時初めて、多少行き過ぎはあったとはいえ、自分が真っ当に愛されて育てられたという事を、この身に感じた。 

 ********

 坂道で、オレは振り返り、母を見る。口でしんどいだの辛いだの言ってる割には、なんだかんだ言って大丈夫そうだと感じたので、オレはまた母を背中に残しながら、ゆっくりと坂道を登る。母の気配をしっかりと感じながら。

 ****


 妹夫婦も、そろそろ母を持て余している。だから妹と話をしても、もし母の身に何かが起きたら誰が責任を取るか、そんな話ばかりになる。先送りにできる内容ではないが、そんな話を始めると、5分もしない内にぐったりと疲労を感じる。

 長い坂道。オレだって歳を取った。この坂道を一息に駆け上がってた頃があったなんて、今では信じられない。

 ようやく長い坂道を上り切ると、母は腰に手をあてて、長い息をついた。

「やればできるものね」そんな事を言いながら。

 オレも太ももの裏側に、慣れない痛みを感じながら、何故だか無性に甘い物が食べたくなった。その直後に連想されたのは大学いもと、冷たい麦茶だった。子どもの頃、よくこの坂道を駆け上がり、大好きだった大学いもを、冷えた麦茶で流し込むように食べては、母に叱られた。もっとゆっくり食べなさいと。

 妻と娘は母の作った大学いものおみやげを、楽しみにしている。母はきっとこれからも、オレが帰郷するたびに、大学いもを作るのだろう。

 終わり

**********

愛というのは、本来「誰のため」でもないんです。

それが「あなたのため」だったり、
「自分のため(自己愛)」になったりすると、精度どいうか、純度が落ちるんです。

例えば、彼氏なり、夫なり、妻なり、息子やら娘なりに、

「あなたのためにやった」
「あなたを思って買った」
「あなたのために言った」

として、もしも相手がそのの思いを受け取らなかったら、確実に傷つくし、場合によっては怒る、

「あなたためにやってあげたのに!!」

となる。愛のために行ったはずが、逆にひどい怒りや、荒い感情に飲まれてしまう。

そういう経験、誰しもあるのでは?愛どころか、憎しみと、痛みを残してしまう。

小さな子供は、基本的に「自分のため」という自己愛の段階。だからワガママを言う。これも大事。健全な成長過程だろう。

しかしもちろん、自己愛を満たしたら、次の段階は「人のため」とう奉仕の気持ちが生まれるのは普通だ。だが、それが本当に『人のため』かというと、なかなか難しいこともある。なぜなら、人のためという理由をつけて、結局は「自分のため」に行っている場合が多いからだ。つまり、自己愛や自己価値が満たされていないから、他者の承認を求めてしまう。

だから、自己価値の欠如から解放されてこそ、人のためという愛は、より純度が高まり、愛は深くなる。

しかし、もしもそこで、その行為に対する「結果」にフォーカスした途端に、それはまた純度を落とすのだ。

なぜなら愛は“行為そのもの”であり、“想いそのもの”なのだ。行為によって、想いによって、その後相手がどうなるか?周りがどう思うか?自分が何を得るか?自分の周りがどう変わるか?

それは愛の本質ではない。

だから、「祈り」という言葉面と取ると、とても「愛の想い」に聞こえるかもしれないが、もしも『願望を叶えるために祈る』といのは、愛の純度でいえば、純粋ではない。結果をコントロールしたいという思いは、エゴが行っている。

あなたが、切実に、今ここで、愛の行為をした時、その時純粋な愛の波動が、世界に広がる。


「子供ために…」母親の純粋な愛は、この世界でとても尊いものだけど、人はエゴを使って、自身の自己価値を、子供を使って埋めようとしてしまったりもする。だから、その辺は気をつけたいものだ。

もちろん、エゴすら、大いなる愛の一部であり、そのストーリーを通して、人は愛に目覚める。

「大学いも」は、そんな母と息子の物語。昔書いた短編小説でした。



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