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短編小説 「対価」 後編

突然「タバコ」が存在しなくなった世界に来た主人公。

こちらの続きです。

それから1週間が過ぎた。相変わらず世界にはタバコのタの字も存在していなかった。

これが現実だと受け入れるとして、いや、受け入れるしかないのだが、果たしてこれが220万円の対価なのかも疑問だ。確かに辛い。最低1日20本、最高60本、数十年間欠かすことなくタバコを吸って生きてきた俺にとって、突然それがなくなってしまったのだ。

だがひょっとして、俺一人が「タバコ」という“夢”を見ていたでは? と思ってしまう。なにせこの世にはタバコなるものは存在していないのだ。

タバコが吸えないから、イライラするし、仕事もミスも多いし、不安やら怒りやら苛立ちやらで、余計に酒量が増えたような気がする。いいことなしだ。

そしてあれから何度か新宿三丁目に行ったが、どうやってもあの路地と、あの女を見つけることはできなかった。

1ヶ月後、俺の口座に金が振り込まれた。見事に220万円だった。この金で確かに生活は少しだけ楽になるのかも知れないなんて思ったが、よくよく考えてみると、マンションのローンの半分を払ってすべて消える。

つまり、結局俺の生活はタバコがないという以外は何も変わっていない。

「本田くん〜、最近、なんかお疲れじゃないのかね?」

ある日の午後、屋上のベンチでうとうとしてたら、専務がやってきてそう声をかけてきた。相変わらず嫌味ったらしい声だ。

「専務、これはどうも、いや、まあ、あの、えーと、そうですね、まあ、何と言うか」

この専務はずっと苦手であり、大嫌いであり、軽蔑対象であり、もし世界に法律がなくなる1日があるのなら、真っ先にぶん殴ってやりたい対象だ。

昔から嫌なやつだったが、4年前までは万年部長で、その時はまだ立場もさほど変わりなかったので、こちらも強気に出れた。しかしこの男のバカ息子が社長令嬢と結婚しやがったせいで、ぐんぐん出世した、コネとキャバクラ接待と賄賂でのしあがった最低な男だ。

しかし、俺が嫌いなのと同様、向こうも俺が嫌いで、昔から何かと逆らってぶつかったことを根に持っているらしく、専務になってから何かとパワハラまがいの言動をしてくる。そもそも開発部の部長だった俺が、突然畑違いの営業の課長に飛ばされたのも裏でこいつが糸を引いてるという噂だ。

しかし、かと言って現状では俺も立場上弱く、今はこの仕事を手放すわけにもいかないので、腹の中で毒づいても、表面的にはへりくだり、要領のつかない返事をして誤魔化す。この頃は嫌味にもずいぶん慣れて、腹が立つより呆れるようになった。きっと、離婚してから、俺の中で何かプライドのようなものがすっぽりなくなったからだろう。

「本田くんも、まあなんだ? ほら、色々あっただろ? ほら、奥さんとね、えっと…ほら?」

「はあ、離婚、ですか」

俺の口から言わせることで、俺に恥をかかせてるつもりか?

「そうそうそう!」

何がそうそうそうだ。曹操孟徳なら斬首だぞ!

「なんで離婚したんだっけ? えーと、なんでだっけ?」

誘導尋問が続く。

「まあ、その、私の不貞で…」

「そうそうそうそう!」

あえて周りに聞こえるように言ってやがる。こんなクズは早々に死んだ方が会社のため、日本のためだ。

「まあ、身から出たサビってやつだね。人間色々あるけど、そればかりは自分で蒔いた種ってやつだしね。うんうん。因果応報というか、奢れるものは久しからずって言うじゃない?」

「はぁ」

俺に何を尋ねているんだ?

「だろ? 昔から平家を滅ぼすのは平家って言うくらい、目先の欲に駆られると自分の首を自分で締めることになるね。うんうん。後悔先に立たずだね。灯台下暗しだ」

いくつの自業自得ことわざの類義語を並べる気なのか…。そして最後の諺は明らかに関係ないのでは?

「とにかく、家庭の事情とか色々あるのはわかるが、仕事は仕事だよ?」

「はあ、すいません…」

確かにこの頃仕事でミスが多かったのは認めてる。だからぐうの音もでない。しかし、ここまで回りくどく嫌味を言うとは。さすがにムカついてきた。俺にローンと養育費がなくて、こいつが専務じゃなかったら今すぐ屋上から叩き落としはしなくても、宙吊りの刑にして、それにこっそり宙吊りのロープに切れ目を入れておくだろう。

「この頃、本田君にしろ、松永くんも様子がおかしい。君ら中堅が頑張ってくれないと、この不況を乗り切れない。だから私もこんなこと言いたくないのだが、叱咤激励して…」

話の途中で専務の携帯電話が鳴ったのでは打ち切れられたが、何が叱咤激励だ!一歩間違えれば罵詈雑言だろが!

「もしもし……。はい。はい。ええ、そうですそうです。ははははは!いいですね!じゃあ赤坂で! いえいえいえい!社長もお好きなんですから! はい、そうです、乃木坂の例の店…、え?私ですか? いやいや、私のムスコはもう親の心子知らずなもんでして…」

完全に俺の存在をガン無視して、明らかにY談な話を大声で話しながら俺の前から去って行った。今なら思い切り後からドロップキックしてぶっ飛ばして、すぐさまダッシュで逃げればバレないのでは? と、本気でそんな計画を練ったが、よく考えたら屋上にはチラホラ人がいるので、こいつら全員を口封じに買収できるほどの財力は俺にないのでやめておいた。願い屋に200万なんかより、専務の命を消してほしいと願いを立てればよかった。

(…にしても、松永が?…)

松永は俺の一つ下の後輩で、開発部の頃は仲良くしてた。ほぼ同期で、一緒に大きなプロジェクトも乗り越えた。

今は違う部署になったせいで、時々喫煙所でバッタリと会うくらいだった。その喫煙所がなくなったせいで、この頃まったく顔を見ていないが、様子がおかしいってどういうことだ?

俺はクソ専務の言葉が気になり、昼休みはまだ半分あったが、松永のいる3階の開発部へ行った。

「ちっす。あけみちゃん」

俺はオフィスで一人弁当を食べている、我が社のお局夫人の“あけみちゃん”に声をかけた。

「なんだ、本田ちゃんか。やめてよ、若い子もいるんだから、あけみちゃん呼ばわりは!」

あけみは口は悪いが、人情味のある姉御肌で、俺の二つ年上だが、昔から何かと気が合う。昔は美人で、今もまあ美人だが、この強気な性格で嫁に行きそびれ、俺も途中から女というより、戦友としか思えなくなった。

「おいおい、久しぶりなのになんだないだろ!なんだは!」俺は笑いながらそう言って、「ところで、松永います?」

「松永くん? 今はお昼食べに…、うーん、まあ、出かけてるわ」

「そっか、昼休みだからな」

しかし、今の言い方が気になる。

「なんか、妙な言い回しだな」

俺がそう尋ねると、

「本田ちゃんだから言うんだけどさ」あけみちゃんは周りを見渡してから、顔をこちらに寄せて小声で話す。ちなみにこの女の困ったところは、誰にでも「ここだけの話」を言いふらすので、彼女に秘密を漏らすと社内はおろか、この頃はSNSにまで書き込む始末なので、誰も大事な話は打ち明けない。

「松永くんさ、最近なんか変なのよ」

こそこそとあけみちゃんは言う。クソ専務の言った通りだ。

「変って、どう変なの?」

「なんっていったかな…。えっと、なんか、よくわからないけど、ないないないって
、騒いでたの。先週末くらいかな。それで、昼休みの度に、近場のコンビニとかスーパーとか行って何かを探しているらしいんだけど、一体なんのことだかまるでわからないのよ」

「何かって、何を?」

「うーん、名前、聞いたこともないもので、とにかく忘れたわ。私も、誰も知らないんだもん。だから、ないないないって言われてもね。ん? どうかした? 本田ちゃんこそ大丈夫?」

「ない…」

俺が変な顔をしてたからあけみは驚いたのだろう。それと、ひょっとしたら専務同様に、俺の様子がおかしいと、耳にしたのかもしれない。

「いや、まあ、わかったよ。後でまた来るよ」

俺は深い話になるのを避けたいので、軽い口調で答えてオフィスを出た。

今の話の内容からして、俺は直感した。

(ひょっとして、松永も俺と同じように、タバコのない世界にやってきたのでは?)

いや、間違いない。コンビニやスーパーを探し回ってると。そうだ、松永はこの世界から消えてしまったタバコを探しているのだ。

俺は同志を得たと喜んだ。タバコは存在しないことには変わりないが、とにかく俺一人じゃないという安心感と、共有できる仲間がいるという心強さがあり、まだ松永がそうだと決まったわけでもないのに胸が温かくなった。

俺はエレベーターを待つのもじれったくて、どうせ三階だったから階段を飛ぶように駆け降り、会社の入り口付近にさりげなくウロウロと挙動不審にキョロキョロとあたりを見渡しながら、松永の帰りを待った。

数人の社員から「なにしてるんですか?」と声をかけられたが、「いや、外の空気を吸ってるのさ、はははは」と、明らかに不審な様子だったが、そんなこと今は構っていられない。早く同志に会いたい。

昼休みが終わる頃、角を曲がって疲れた顔をした、うなだれた松永が目に入った。

「おーい、松永!」

俺は大きな声を出して駆け寄る。

「ほ、本田さん? ど、どうしたんだ?」

松永は驚いているのだろうが、まったく驚いた表情ではなかった。死んだ魚のような目をしていた。

「なんか、お前さ、最近調子悪いんだって?」

思わず俺は嬉しそうに言ってしまう。

「いや、調子っていうか…。本田さん…、いや、まあいいや」

松永はため息混じりにそんなことを言い捨てたが、明らかに何か言いたげであることは間違いなかった。

「わかってるよ」優しく、さとすように言った。「わかってる。あれが“ない”んだろ?」

俺の言葉に、松永はハッとした顔になり、目を見開いた。

間違いない。同じだ。そしてさぞかし不安だっただろう。俺はもう数週間経つが、松永がおかしいのはここ一週間とあけみが言ってたから、多分、このおかしな世界に来て一週間も経っていないと俺は踏んだ。だからここは先輩として、ここは余裕を持って接しておきたい。

「え? まさか、本田さんも?」

「そうだよ。ないんだ。“ない”世界に、来ちまったんだ」

松永はようやく表情を見せた。泣きそうな顔をしていた。

「そ、そうか、そうだよな! よかった、俺一人じゃなかった…!」

そして、本当に泣き出した。通行人が俺たちを怪訝そうに見てる。無理もない、若い男女ならまだしも、中年のサラリーマンのおっさんなのだ。

「ちょっ、とりあえず、松永、休憩は少し伸ばして話そう」

俺は泣いている松永の腕を引っ張り、ビルから離れて、川沿いのベンチに連れて行った。

「一体、どうなっているんだ…。自分の頭がおかしくなったのかと思って…」

「だよな?だよな!うんうん。わかるぞ!松永!俺もそうだ。自分がおかしいのか、世界がおかしいのか、とにかくすべてがおかしいんだ」

「あー、よかった。俺一人じゃないんだ。あ、そうだ、じゃあ本田さんも、願い屋とかっていう女に?」

「そうそうそうそう!それ!願い屋!新宿だ!3丁目で、見たことのない路地で?」

「なんてこった!俺と同じような人がいたなんて!」

松永は喜んで俺の手を握りしめる。おっさんに手を握られるのは心地よくないが、俺も嬉しかったので手を握り返した。おっさん二人が熱く手を握り合ってる光景は、さぞかし奇妙だっただろう。

「あれ? 本田さんは新宿? 俺は恵比寿だったぞ?」

手を握りしめ、喜びの涙を浮かべながら松永はそう言った。

「お前は恵比寿か? ということはあの女、あちこちに出没してやがるんだな」

「坊主頭の、声の高い女でしょ?」

「そうそう!願いを叶えるから、対価を貰いますってやつだ」

「やっぱり!一体あの女は何者っすか? どうしてこんなことが起きたんですかね?」

松永はすがりつくように俺に尋ねた。

「俺だって困ってるんだ。でも、自分以外は誰も記憶というか、その存在ごと、この世界からなくなっているんだ」

「あー、一体どうなってるんだ!」

出会った場所は違えど、聞いてみるとシチュエーションはまるで同じだった。しこたま酔っ払って、見たことのない路地に迷い込み、松永は願い屋の女に会ったと言う。

しかし、自分の頭がおかしくなったのかと思っていたが、どうやらそうではないようだとわかった。こうして同志とも呼べる被害者仲間がいたのだ!

「とりあえず、一旦落ち着こう」

俺は松永をなだめた。

「あ、ああ…。そうだな。よかった。俺だけが気が狂ったんじゃないかって本気で思った」

松永のその言葉に、俺は深く深く、腹の底から同意して頷いた。

「ふー。なんつーか、やっぱこんなときだよ。欲しくなるのは」

俺がベンチの背もたれに寄りかかりそう言った。

「ですね〜。こんな気分の時に一息付くことができないなんて。なんて世界だ!」

松永は涙を拭い、いつものハリのある声でそう言った。どうやら元気になったようだ。

「こんな時は、ぷかーっと一服だよな。休憩や、飯食った後に吸えないと、手持ち無沙汰だよな」

俺がそう言ってタバコを吸うジェスチャーをすると、

「は? 吸う?」

松永は素っ頓狂な声を出した。

「え?いや、ほら、吸うだろ?」

俺は何度も指でタバコを吸う仕草を繰り返すが、

「吸うって、何を? 何、その指?」

松永はハリのある、だが怪訝な顔でそんなことを言う。

「いやいやいや、ちょっと待てよ。タバコの話してんだろ?」

「……タバコ?」

二人の間に沈黙が落ちる。

「ごほん…。えーと、では少し整理しましょうか」松永は冷静な顔つきになった。「タバコ?吸う?とは一体何のことでしょうか?」こいつは昔から人に対して反抗的になると、すごくお堅い敬語を使う。

「…いや、俺が、対価として、タバコを吸う習慣って…」

「なんですかタバコって? “コリンクル”がないという話じゃないんですか?」

「こ? こり? …コリンクル?」

「“コリンクル”! 本田さんも毎日飲んでたでしょ?」松永は再びいつものタメ口になる。「“コリンクル”がないと1日が始まらないってよく言ってたじゃん!」

松永は少しだけ声のトーンが大きくなった。

「コリンクル? はぁ? 何の話だ? タバコがなくなったって話してんだろ? お前こそ前にメンソールなんて吸う奴は男じゃねぇとかインポだとか偉そうに言ってたじゃねぇか!」

俺も負けじと声がでかくなってしまった。

「大体“コリンクル”ってなんだよ!! どっかの合法ドラッグか? アイドルの語るなぞの宇宙の惑星か!?」

「はぁ? コリンクルを何だと思ってんだ! あんたこそなんだっけ、タバコ? タバスコの仲間か? そんなもんちゅーちゅー吸うって頭おかしいんじゃねえか?」

お互い裏切られた気分になったのか、無性に腹が立って、その後もしばらく二人でコリンクルだのタバスコだの口汚く罵り合いのようになってしまった。

そこに警官が通りかかり、

「あのー、どうかされましたか?」

と冷めた目つきで尋ねられたので、

「いえ、何も…、その、仕事の打ち合わせです」

と松永が咄嗟に答え、とにかく二人とも落ち着いた。このまま何も知らない警官にコリンクルとかタバコとか言ってしまったら、そのまま職質もされずにどこかに連行されかねない。

警官が去ってから、再びベンチに座る。

「……ひょっとして、俺たちは、やっぱ違う世界からやって来たのかもしれないっすね」

松永は落ち着きを取り戻し、川を眺めながらそう言った。

「どういうことだ?」

「本田さんはなんでしたっけ? タバコ?」

「そう。タバコだ。タバコがないんだ、この世界は」

「俺ははそんなもの名前も聞いたことないよ。でも、本田さんは“コリンクル”を知らないんだろ?」

「そんなネーミングのものは聞いたことない。なんなんだ、コリンクルって?」

「なんか、説明するのもバカらしいくらい、国民的なドリンクだよ」

「ドリンク? コリンクルって飲むもんなのか? コーラとか、コーヒーとかの仲間?」

「仲間なわけじゃないじゃないですか」と鼻で笑うが、俺に“コリンクル”がどんなものかわかるはずないので、言い返すのはやめた。何やら松永はコリンクルとやらにえらく愛着があるようあ。

「コリンクルはコリンクルです。唯一無二の、命の水ですよ…。で、そっちのタバコってのはなんですか? 吸うって、お菓子か何か?」

「ちげーよ。食ったり飲んだりとかじゃなくて、火をつけて、こう、煙を吸うんだよ」

俺は再びタバコのジェスチャーをした。この動作を、もう20日間近くしていないなんて、中学一年生以来だ。

「け、煙?」松永は体をのけぞらせて驚く。「おいおいおい…。まじ? それ、何が楽しいの? 美味いものなんですか? てゆーか体に悪いでしょ、絶対」

「まあ、体にいいもんじゃねぇんだけど」

それは認める。

「体に悪いってわかってるのに、煙を吸う? 意味がわかりません。それほど美味い煙なんですか? どんな味?」

「美味いとかまずいって、そういうんじゃなくて…。あー、説明できねぇよ」

二人は沈黙する。こういうイラついた時にこそタバコが真価を発揮するのだが、もちろんこの世界にはタバコはない。煙を吸うという行為自体がない。

「ところで、本田さんはそのタバコだか煙を吸うってことに対して、何を対価にしたんです?」

松永が沈黙を破ってぼそっと尋ねた。

「…金だよ」

一瞬躊躇したが、隠すこともないので投げやりにつぶやいた。

「酔っ払っててな。何も考えずに咄嗟に金って言ってしまった」

言い訳のように説明したが、

「俺は、車です」

松永は俺のことには興味なさげにそう言った。そうだ。こいつは昔から車好きだ。

「フェラーリが欲しいって言ったんです。俺の何か考えたわけじゃないっすよ。ただ、酔った勢いで適当に言っただけです。そもそも本気にしてないし。本気にするわけないし。そしたら翌日、嫁さんが海外のネットの宝くじでフェラーリが当選したんです。新古車だが、600万相当するものです。来月に、家に届きます」

コリンクルがなんなのかわからない以上、フェラーリへの対価としてふさわしいのかどうかはまるで見当がつかないので、

「そうか」

と一言だけ言った。

「そろそろ、戻るかな…」

松永はさっきの元気を無くし、また力無い声で、ゆっくりとベンチから立ち上がった。

「ああ、すっかり、遅くなっちまった」

俺も立ち上がる。体がぐったりと重たかった。松永の気持ちがわかる。ぬか喜びしたせいで、余計に疲れた気がする。

「もう2度と、戻れないのかな…」

松永は寂しそうに呟いた。コリンクルが恋しいのだろうか?まるで別れた女のことを話しているようだ。

「さあな、わからん。俺も、タバコがある世界に戻りたいよ」

「とにかく、内容は違えど、こうして何か、例の願い屋だかなんだかに、別の世界に運ばれたもん同士っことですね。またなにか分かり次第、すぐに知らせます」

「ああ、頼む。今のところ手がかりもないが、なにかわかったら、必ず…!」

***

それからさらに月日が過ぎた。定期的に新宿三丁目へ行くが、どんなにへべれけに酔っ払ってもあの女には会えなかった。松永ともちょくちょく会社で話すが、同じように仕事終わりに恵比寿をうろつくが、例の願い屋には会えず、俺はタバコのない世界を、そして松永は“コリンクル”のない世界を生きている。

しかし、コリンクルがいかなるものかはいまだによくわからないとして、タバコに関しては健康に良くないのは明白だ。もう3ヶ月も禁煙を強いられたせいなのか、この頃妙に体調が良く、仕事中にぼうっとして居眠りすることが減った。駅の階段を慌てて走っても、以前なら激しく息切れして咳き込んでいたが、この頃は呼吸も軽い。

認めたくないが、明らかに俺はタバコをやめたおかげですこぶる快調である。マンションのローンも減ったし、いいこと尽くめのような気がする。

だが松永は逆に体調が芳しくないようだ。なんでもコリンクルとやらは、国民の健康飲料で、それを飲むようになって松永は持病の胃痛が治って腰痛も改善されたとか。かつて松永がいた世界では、コリンクルがブームで、世界にも売り出され、国際規模のヒット商品だったらしい。

松永の対価として選んだフェラーリは、健康を害するくらいの対価だったのだろうか?いや、おそらく松永が不調なのは精神的なもののような気がする。

だが、健康問題よりなにより、今だに解せないのが、こんなことが起こり得るのか?という純粋な疑問だ。パラレルワールドとか、ベタなSFアニメのような設定だが、それにしてはあまりにこの現実は味気ない。SFならもう少しドラマチックではないのか?

こうしていつも通りの生活は続き、変わらぬ現実の仕事がある。今日もこれから取引先の会社へ打ち合わせだ。

(はぁ…)

とため息をつくが、この頃は実はさほどこのため息が悪い気がしない。気分転換に仕切り直しに息を吐いてる感じだ。そして、再び息を吸って上を向く。煙を吐き出さなくても、気分転換ができると知った。

「本田課長…」

外回りに同行した部下の柿田は、会社から出るときも無口だったが、改札の前で、何か思い詰めるような声で言った。よく見ると顔色も悪い。

「なんだ? また二日酔いか?」

柿田はよく二日酔いで午前中ぼけっとしていることが多いので、俺は少し非難を込めてそう尋ねる。完全に自分のことを棚に上げて。

「気付いてます? 朝から、どこの駅にも“モフェリ”がないんですよ。いつからなくなったんですかね?」

俺が何も言えず黙っていると、柿田は俺の空中に視線を置いたまま、怯えるように話す。

「今朝から、突然ですよ? 昨日まで普通にありましたよね? “モフェリ”がないと無茶苦茶不便じゃないですか? 課長はどう思います、“モフェリ”が急になくなったことについて。みんな、何も思わないんでしょうか…」

俺は何も言えなかったが、何が起きたのかは理解できた。まさか、ここにも…。

「課長!どうなってるんですか? 課長はなんとも思わないんですか?突然モフェリがなくなったんですよ?」

柿田は俺に挑みかかるように訴えかける。元ラグビー部で、身長183センチの柿田に凄まれるとさすがにビビる。

「まあまあまあ、落ち着け。お前の気持ちは…」

と柿田をなだめかけたところで、キヨスクの前で女の騒がしい声が聞こえて、二人ともそちらを見た。

「なんでよ! “ジモミリン”を買いたいって言ってるだけよ!」

水商売風の派手な服装の女がいて、キオスクのおばちゃんに文句を言ってる。

「ジモミリンよ! え?ないの?ないわけないでしょ?昨日ここで買ったわよ!どうなってんのよ!」

「なんだあれ? ジモミリン?なんのことだろう…」

柿田がひとりごちたが、俺は絶句していた。するといきなり後から、

「すいません」

と声をかけられたので振り向くと、明らかな浮浪者のような紙袋をたくさん持った、髭面で、ざんばら髪の汚いオヤジがいた。

「お尋ねしますが、今日って“ゴイジマリ記念日”ですよね?」

「は?え? ゴイジ……?」

「ええ、国民的記念日で、みんな休みのはずなのに、なんでこんなに人が多いのかなって…」

浮浪者が話している後ろで、今度は駅の改札で、駅員相手に揉めている男がいた。

「だ〜か〜ら! ウンパパク線だよ!アジアル駅へ行くのは何番線だって聞いてんだよ! なんで突然路線図から消えたんだ? アジアル駅に行かないとならないんだよ!」

(こ、これは…!)

「課長! とにかくマフェリの話ですよ! どうなってんですか!」

「あんたはゴイジマリの日なのに、仕事なのかね?一体どうなってるんだ?」

「ジモミリンよ!さっきから言ってんでしょ!マジで動画ネットに撮って晒すよ!」

俺はこう思った。

タバコが、吸いたい。

終わり 


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