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外国人の多い職場 (エッセイ)

今日はエッセイのようなものです。これからちょいちょい、こういうスタイルで、自分の人生に起きたことを、文章にしたためていきます。

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日本は島国で、単一民族国家に近い。俺も生まれ育った環境は、ほとんど日本人しかいなかった。

20歳で上京し、東京へ来ると、かなり色んな国の人がいて、今も都内だと、コンビニなんて入れば、なぜか外国人の従業員ばかりだったりする。(いや、別にそれが良いとか悪いの話ではない。ただ、日本も都会に行くと、たくさんの外国人がいる、という事を言いたいだけだ)

しかしそれでも、未だに多くの日本人が、「外国人」と接することが慣れていないし、どちらかというと「苦手」とすら感じているような節も感じられる。

これは、俺が現役で社会に出て人と接して、世間の風を浴びて生活していた(ようするに、どこかに勤めていたということ)、10数年前の感覚かもしれないが、日本人は外国人に対して、非常にクローズは一面を持っていると思う。

欧米の白色人種にはどこか卑屈になり、黒人には暴力的な怖さを感じていてる人が多い。そしてなんとなく、中国人やその他のアジア人、特に肌の浅黒い民族には、妙な優越感を抱いている人が多いような気がした。逆の言い方をすると、アジア人を見下している人が多い、という印象だ。最近は、中国が経済発展し、ここ数年はどこの観光地へ行っても中国人だらけなので、中国人には免疫はついたのだろけど…。

俺はとかくフリーター歴が長い。数々の職種を経験した。

そして色んな職場で、ちょいちょい色んな外国人が混じっていたが、周りの日本人のスタッフや雇主など、彼ら彼女らの対応を見てて、そう感じた。俺にはそれが興味深く、彼らの言動を事細かに観察した結果、思ったことだった。

もちろん、全員がそうじゃない。公平な人もいるが、往々にして、日本人の全体的感覚的には、上記のイメージってあると思う。

これは完全に『イメージ操作』されたものだろう。白色人種は、我々は敗戦国だし、欧米文化が正義で、日本文化はダサい、というような、戦後のプロパガンダの元に広告されてきたし、黒人は、アメリカ社会でも、「黒人=犯罪者」というイメージングがある通り、(参照note・差別やいじめを考える)、日本のマスメディアは、アメリカの大手メインストリーム・メディアの情報を流すので、そのようになっている。

アジア人に対しての謎の優越感は、欧米人への劣等感の裏返しであり、先に「経済発展・先進国」の仲間入りをしたというプライドや、民族としてのちっぽけなアイディンティティだと思った。

この頃は、きっと変わってきていると思うし、若い人の感覚は、俺の世代(1978年生まれです)とはまた違う。しかし、往々にして、俺よりも上の世代は、外国人に対して、漠然とそんな意識は残ってると感じるけどね。

しかし、大事なのは「慣れ」だ。確かに、民族性の違いたくさんある。しかしそれでも、一人の人間同士として付き合えば、そんな偏見はずっと少なくなる。

様々な外国人と、アルバイト先で接してきたが、外国人ばかりの職場にいたことがあった。

関西に本社がある商社で、JRの駅や、デパ地下の催事などの、お土産用の食品の販売の会社だった。ちなみに、社員はすべて関西人。

俺は販売の仕事もしたが、途中から工場で、製造、運搬の指示や、生産量の調整などの仕事をしていた。

工場には、日本人のアルバイトや、社員もいたが、外国人が多く、日によって、時間帯によっては 俺以外全員外国人、という時もしばしばあった。理由は単純で、販売員をするには、言葉がカタコトだったから、工場勤務になった外国人たち。

ラインナップは、イラン人、韓国人、バングラディシュ人、中国人。もちろんトラブルやアクシンデントもたくさんあったが、様々な価値観や、感覚を、肌で体験できたのはとても良かったと思う。

仕事に対しての考え方や、彼らの人生観、彼らの民族としての誇りや威厳、宗教観、逆に、日本人よりもしっかりと考えている人の方が多かった気がする。いや、それは、彼ら自身が、遠い外国に暮らす「外国人」だからこそ、育まれたアイディンティティかもしれないが…。

バングラディシュ人の女の子は、毎日お弁当にカレーだった。聞くと、朝昼晩、全てカレーだと。彼らの主食は「米」でも「小麦」でもなく、カレーなのだと知った。

バングラディシュ人はムスリム(イスラム教徒)がほとんどで、彼女も例にもれず、アラーを信じて生きていて、豚肉を食べなかった。

その工場で、日本人の社員同士のケンカ騒ぎがあった。殴り合い寸前の、怒号が飛ぶ中、胸ぐらを掴み合って一触即発。

一人はほぼ現役ヤンキーで、怒らせたらほんとに相手を半殺しにしかねない男だったので、俺は体を張って仲裁し、その場を収めた。その手の輩の扱いには昔から慣れている方だ。

バングラディシュ人の女の子に、

「怖かっただろ?」と、騒ぎの後に聞いたら、

「ぜんぜん」と、平然と答えた。確かに、彼女はその騒ぎの間も、特に表情を変える事なく、作業をしていた。

「ワタシの国、男のヒト、ケンカよくする。すぐ怒る。すぐナグる。たまにほんとにコロシてしまう。だから、あれくらいよくあるよー」

と、笑いながら言った。

「こ、殺す?」

「そう。ナイフで刺したり、銃で撃たれたり」

その女の子は、日本の大学に留学するくらいだから、お金持ちのお嬢様らしかったが、ずいぶんのスリルある環境で暮らしていたのだと知って、俺はとても驚いた。マイペースで、のんびりおっとりしている女の子だと思っていたら、目の前で人がぶっ殺されるような街の中にいたとは…。

別の職場でも、ムスリムのバングラディシュ出身の男性がいた。

そこは飲食店だった。彼はその店にはもう10年以上勤めているベテラン。しかし俺がその店でホールの仕事をしていた時は、彼はランチタイムのみの出勤で、夜は自分のお店をやっているという話だった。日本人女性と結婚し、子供もいた。

彼は、見るからに教養もあり、礼儀正しく、話すと話題も豊富で、学のある人だとするわかる。仕事も有能だった。日本語もほぼ完璧で、簡単な漢字なら読むことができた。

しかし、優秀な人にありがちで、仕事への要領が悪いスタッフに対しては厳しく、批判的な態度を顕にするタイプだった。「どうしてお前はこんなこともできないんだ?」と、仕事のできないスタッフに言ってしまう。彼には「できない人の気持ち」が、わからないのだろう。

失礼。今の話は“外国人”とは関係ない話だった。優秀な人が、非優秀な人の気持ちがわからないのは、おそらく万国共通なのだろう。

ある日、彼はキッチンにいる男性から「豚肉を食えよ」としつこく言われていた。その男性は、その会社でも偉い立場にある人だった。

「こんなに旨いもんを食べないで一生を終えるなんて人生損しているぞ!」と、ひょっとしてそれは彼なりの愛情だったのかもしれないが、バングラディシュ人の彼はほとほと困り果てていた。

時にエスカレートして、彼のまかないの食事にこっそり混ぜたこともあった。彼は一口食べただけでそれに気づき、憤慨していたが、上司だったこともあり、あまり強くは言えなかった。そのキッチンの男性も、

「わりぃわりぃ、そんなに怒ると思わなかったわ」と、あくまでも笑い話にしていた。

そのやりとりを、多くのバイトスタッフが見て笑っていたのも異様だった。俺はイスラム教の事は知らないが、「自分たちとは違う価値観で生きている」というのはよくわかっていたので、とにかく、そのムスリムの男性には同情した。

いつだか、そのバングラディシュ人の男性と二人で話すと、

「日本人の宗教への理解のなさと無知には驚く」

というような事を言っていた。ちなみに俺は幸い、その職場では彼から仕事ぶりが評価されたのか、信用が厚く、音楽にも詳しい人だったから、親しく話せたので、そんな愚痴をこぼしてくれたのだろう。ちなみに、よく「キリスト教徒」の事は批判的に話していたのもよく覚えている。宗教とは、実に色んな問題を、色んな風にややこしくするのだろう。

色んな国の人と、一緒に作業をしたことでよくわかったことの一つとして、『日本人は真面目すぎる』ということだ。

外国人は往々にして、とてもマイペースだし、肉体的にも精神的にも無理をしないし、決められた労働以外のことは極力しない。そして「自己主張」がはっきりしている。自分が欲しいもの、したいことをハッキリと言う。嫌だと思ったらそれもはっきりと言うか、態度に表す。

日本人が多数の職場やコミュニティの中に、そのような外国人が一人だけいるとそこでは浮いてしまうが、俺は上記したように、外国人が多数いる中で働いていたことがある。そうなると、生真面目で残業を厭わない日本人の俺の方が異質でマイノリティになるのだ。

よく言われることだが、日本人も、彼らを見習い、もう少し、自己主張をした方がいいとは思う。しかしそれでも、日本人の美徳というか、勤勉さや、自己より全体を重んじる性質というのは、非常に素晴らしいものだと思う。

まあ、凡庸な言い方になるが「バランス感覚」が必要なのだろう。我々はとかくバランスに欠いているような気がする。

このコロナ騒動への対応でも、国がどうの、システムがどうの、ましてウイルスがどうのよりも、個人個人のバランス感覚や、アイデンティティによって、その対応や、パニック度、平穏度は大きく違ったと思う。

どうやってバランス感覚を取るかって?

そこなんだよ。もし、あなたがすぐにそれを誰かに聞いてしまいたくなるようならば、それはすでにバランス感覚が失われている。

自転車に乗りたいのなら、自分で乗って、体で覚えるしかないのと同じだ。例えば競輪選手がコツを教えて、物理学者が自転車の構造と仕組みをどんなに完璧に教えたとしても、自分で乗り、バランスを取るしかない。

乗れるようになると、とても楽しいし、自由度が広がるのはもちろん、乗りこなすための日々も、なかなか楽しいものだ。

話を戻そう。

日本で暮らす外国人。彼らは見知らぬ異国で、言葉を覚え、そこで仕事や勉強をして、体で覚えていく。時に冷遇されながらも、どんな人であれ、俺はそれだけで尊敬するし、自分が外国に行った時(旅行者だけど)、現地の人から優しくされるととても嬉しいし、とても助かる。だから、俺も外国の人には優しくしたいと思うよ。

一部の人の、つまらない行為で、来てくれた外国人が日本を嫌いになってしまったら、悲しい気持ちになるしね。

コロナの影響で、なかなか自国に帰れない人も多いだろう。そんな中でも、たくましく生きていく外国人。仲良く、手を取り合って、人類という兄弟として、この世界を楽しくしていきたいと思う。

世界が一つになる日は、必ず来る。


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言葉の力で、「言葉で伝えられないものを伝える」ことを、いつも考えています。作家であり、アーティスト、瞑想家、スピリチュアルメッセンジャーのケンスケの紡ぐ言葉で、感性を活性化し、深みと面白みのある生き方へのヒントと気づきが生まれます。1記事ごとの購入より、マガジン購読がお得です。

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