連載小説「天国へ行けますか?」 #8
☆ 新刊出版
☆ 五感を磨く山歩「歩く、空也の滝」 5月27日(土) 京都嵐山
☆ 五感を磨く山歩「歩く、御岳山」 6月14日(水) 東京都青梅市
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前回の続きです。
連載小説「天国へ行けますか?」 #8
「腐敗しないためには、やはり風通しが重要なんだよな」
松永はそう言って、コーヒーを一口飲む。
「風通し、か…」
「水の流れもそうだろ?停滞すると雑菌が繁殖して、藻が増え、やがてヘドロになる。しかし、流れている水は腐らない」
「人間も、同じだな…」
松永が離れてから、俺の身の回りは明らかに風通しは悪かった。今思うと、周りをすべてイエスマンで固めていた。反対意見を言う奴は即首を切ったので、皆ますます恐れて諫言はできな雰囲気だった。当然新しい風は入らないし、おべんちゃらのうまい奴や、俺を利用しようとする連中ばかりだったと思う。
「風通しと言っても、人間は食材じゃないから一概には言えないけどな」
松永はコーヒーカップを、まるでワイングラスを回して空気に触れさせるようにした。
「ん?」
俺がそれをじっと眺めているので、松永が不思議そうな顔をした。
「ああ、これか?ワインと同じだよ。空気に触れると、味が変わるんだぜ?これも風通しだ。空気に触れさせることで変化していく」
なるほどと思い、俺もやってみる。そして一口飲むと、うーむ…。そう言われてみると違う気がするが、ワインほどの変化はないかもしれない。
「ははは、素直になったじゃん」
俺がカップを回しているのを見て、松永は笑った。
「そうか?」
「ああ、絶対そういうの、人の二番煎じみたいのやらないだろ?」
そう言われてみるとそうだ。以前の俺なら、本人の目の前では鼻で笑い、後で一人で試していたに違いない。
「そうか…」
そこで、俺は気づいた。まるで、胸の中に「光」が差したかのようだ。分厚い雲をかき分け、雨上がりに日差しが大地を照らすように。
「どうした?」
「素直さだ。素直であることが、風通しであり、腐敗しないために必要だ」
その時、窓の外から強烈な光が放たれ、部屋中を照らした。思い出した、少し離れているが、斜め向かいのガラス張りのビルがあり、そこに日差しが反射して、この部屋がまるで直射日光を浴びたかのように眩しい光に包まれる時間帯があったのだ。
俺は思わず目を細めながら、まるで自分が自分自身へ素直になった祝福の光のような気がして、一気に体が浄化されたかのように、二日酔いのだるさも、停滞していた気分も一層された。
と、祝福の光に、静かな喜びを感じていたところに、
「上出来上出来!」
と兄の声が聞こえ、驚いて目を開けると、俺は先ほどの真っ白な何もない空間にいた。キッチンカウンターのスツールだけがあり、俺はそこに座り、兄は目の前に立ってまた缶ビールを飲みながら笑っている。
「え?え?あれ?」
呆気にとられる。さっきの松永との、心通わせた温かい時間は?今の、素直になれた時に感じた光は?
「上出来だよ。うーん、それが気づきってやつだ。胸の奥からあったかい感動があったろ?その感動はよ、脳の興奮じゃねえんだ。普段は脳のドーパミンの放出による興奮を感動だと勘ちが……」
「いやいやいや!」俺は抗議するかのように兄に言う。「ちょっと待てよ!松永は?さっきの場所は?どうなった?」
「あ、ああ」話を切られたせいか、兄はどこか不満そうだったが、「まあなんつーの。ふりかえりミッション、ステージ1をクリアだ。よく決断し、素直に心を開き、学び、よく気づいた」
「今のは……夢?なのか?」
「いや、現実だ。今の世界は存在する。思い出せ…」
「え?」
思い出す…?そ、そうだ。俺はあの後、不遇の時代にも松永と交流をし、カフェをオープンした松永を応援しつつ、接客や飲食のオペレーションに不慣れなせいか、いまいち売上が伸びないところを、経営に専念するようにそれとなくアドバイスし、そこから松永は飲食店プロデュースの仕事を始め、それが大当たりした。その後……。
(え?)
俺は混乱する。これは、なんだ?
松永はそれから、俺の立ち上げた経営コンサルタント事業の立ち上げにも投資してくれたし、ゲスト講師で俺を呼んでくれて、そこでセミナーをしたり、いくつか一緒に仕事をしていた。
そして、俺の臨終の際には、松永は近くにいてくれた…?
「どういうことだ? 俺の歴史が、二つある?自分の中に、まるきり違う記憶がある…」
「そうなんだよ。実はな、人生ってのはいろんな可能性があるんだよ。お前は自分の生き方を変えて、違う人生を開花させた。人はよ、選べない出来事もあるけど、選べる人生もあるんだ」
そんなことが可能なのか…。じゃあ、今からでもこうして人生をやり直せるのか?
「やり直す、ってのとはちょっと違うけど、まあ同じようなもんだよ。どうしてもやり残したことは、こうやって精算させることはできる。そして、別の可能性を体験できる」
別の可能性…。人生は、一つではない、ということか?
「さてと!感傷に浸るのはまだ先だ!」
兄は明るい声でそう言うと、また腕を上げて回し始めた。
「たーけーこーぷたー!」
「え?いや、え?ちょ…っ、また?」
あっと言う間に、兄の腕は高速回転をし始めて、宙に浮かび、俺も再び真っ白な上空へ吸い込まれてしまった。
*
「ねえ?聞いてる?」
俺は目の前にいる明子の顔を見ながらぼんやりとしてしまっていた。
「いつもそう。人の話、ちゃんと聞いてない。私の話も、そしてサチの話もちゃんと聞いたことある?約束守ったことある?」
さっそく、沸々と怒りの感情が湧き起こっている自分と、それを傍観してるような自分がいる。
そう、ここは元妻の明子が家を出て行く、最後の会話の日だ。俺は仕事に忙しく…、いや、違う、家庭を顧みずに遊びまわって、金さえ家に入れて、贅沢させてやってるんだと、とんだ勘違いをしていたころだ。
しかし、当時は俺は、明子の態度にイラついていたが、これは当時の俺の感情だ。今は違う。この後、仕事に失敗して、悲しい初老を迎え、孤独に死んでいくのだ。いや、松永だけが、最後にいてくれたという、別の記憶もあるが…。
ちょっと待て、整理しよう。
場所はさっき松永がいたキッチンの隣のリビングスペースだ。さっきの会社が転落したあの日より、2年ほど前だ。
この日、俺は前日の痛飲の二日酔いで、昼過ぎに這い出るように起きてリビングへ行くと、「話がある」と、明子に言われた。
面倒臭い話し合いに付き合わされてるのはごめんだと思った。どうせまたいつもの小言か嫌味だろうと。娘のサチは幼稚園に行っている時間に、ぐちぐちと俺の非を責めるのだ。
「どうせ、私がこうやって何か言うたびに、誰が金稼いでいると思ってるんだって、最後は怒鳴るんでしょ?」
考え込んで黙っている俺を見て、俺が怒鳴り出すと思ったのか明子はそう言った。そう、俺は口論になると最後はでかい声を出して、金だの仕事だののことをまくし立て、明子をいつも黙らせてきた。そして、この日はいよいよ…。
「もういいわよ。いつもそう。あなたはお金さえあれば全部済むと思ってる」
明子はコーヒーを飲みながら、目を合わさずに言う。
「出てくから。あなたのお金だもんね。これからはあなたが好きに使えばいいわ」
そして、離婚届を出すのだ。
記憶の通り、明子はハンドバックから封筒を取り出し、その中身を広げ、俺の前に差し出す。離婚届の半分は、すでにサインも捺印もしてある。
ここで俺は、娘のことをどうするんだと、例によって逆ギレをしたのだが、今はそんなことはしない。もちろん、今の俺は二人の自分が重なっているような状況で、当時の俺の心境がよくわかる。今にも怒鳴り出しそうだ。
しかし、当時はただ「自分勝手な女だ!俺から娘を奪うな!」と一方的に怒りを感じていると思っていたが、本当は悲しくて、やりきれなくて、情けなくて、そして何より、一人になることをとても怯えている。
そんな自分の中にあるさまざまな感情を「怒り」で抑え込んで、それを発散することによって、自分を正当化し、明子はもちろん、自分自身をも誤魔化してきたのだ。
「慰謝料はいらないわ。ただ、養育費はもらうわよ?当然でしょ?血は繋がっているんだから、それくらいは義務としてね。私のためじゃないわ。サチのためよ」
サチは渡さない、当時の俺はそう言った。しかし、明子は、
「親権を争うって言うのなら、それでいいわ。弁護士でもなんでも、たくさんお金使って雇えばいいわ」
この自信の根拠は、すでに明子が私立探偵を雇い、俺の家庭外でのプライベートの証拠を押さえていたからだ。裁判になったが、圧倒的に俺に非があることが判明し、結局いらないと言ってたのに多額の慰謝料の支払いが命じられ、そして親権が認められないどころか、月に一度しか会う機会が得られなかった。そしてそれすら、サチの方が俺に会うのを嫌がっていた始末だ。
(ああ、この日が、俺の人生の転落の始まりだったのか…?)
「……珍しいわね。何も言わないなんて。どうせひどい二日酔いなんでしょ?」
明子が鼻で笑う。
「サイン、今できないのなら、後で送って」
そう言ってしばらく間を置いてから、
「荷物は、明日中に業者が引き取りにくるわ。でも処分してもいいわよ。もう、私とサチの必要なものは、実はあらかたまとめてあるから」
知ってる。まとめて処分してやろうと思ったら、妻の部屋はかなりものがすでになくなっていて、サチのものはおもちゃも衣服も何もなくなっていた。俺は同じ屋根の下で暮らしているのに、そんなことも知らなかったのだ。
「……サチは、なんと言ってるんだ?」
離婚が覆らないのは知ってる。しかし、改めて聞いておきたかった。
「聞きたい? まず、自分のやったこと、胸に手を当てて考えてね。それで、娘が父親に対してどう思うかを、想像してね」
つづく…
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