連載小説「天国へ行けますか?」 #9
☆ 新刊出版
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前回の続きです。
連載小説「天国へ行けますか?」 #9
「……サチは、なんと言ってるんだ?」
離婚が覆らないのは知ってる。しかし、改めて聞いておきたかった。
「聞きたい? まず、自分のやったこと胸に手を当てて考えてね。娘に対して、自分がどんな父親がだったか。それで、あなたに想像力があるのなら、その娘があなたのような父親に対してどう思うかを、想像してね」
明子は鼻で笑うように、そして挑発的な言い方でそう言った。
「なんだと?」
明子の言葉に、思わずこの肉体の持ち主の、当時の俺の記憶のままに、俺は声を荒げそうになった。
しかし、明子は目を合わせずに同じ口調で続ける
「そうやって怒るんでしょ?何か意見されれば?サチにだってそうよ。運動会は?誕生会は?クリスマスは?約束破ったことを責められると、最後は怒る。だから誰も何も言えやしない」
その通りだ。俺は父親として、ほとんどそういう行事に参加したことがない。いや、参加しようと何度も思った。しかし、本当にそういう時に限って、本当に抜けられない仕事が入ったり、緊急の用事が入ったりしたのだ。それはその度、家族より仕事を選んだのだ。そして、それを責められるのは本当に辛くて、つい怒ってしまった。
「そもそも、昨日がどんな日だったか知ってる?」
「は?昨日?」
いや、それは知らない。必死に記憶を辿るが、昨日は誕生日のような特別な日でも、特に行事をすっぽかした覚えはないが…。
「遠足よ。サチは遠足の話したいから、あなたに早く帰ってきてねって、二日前に言ったわ」
まるで覚えていない。
「そして、あなたはわかった、早く帰るよって言ったのよ。どうせそんな約束したことも忘れてるんでしょ?」
何も言えない。ぐうの音も出ない。
「サチは遠足、楽しみにしてた。でもそこでね、友達が怪我をしたの」
「怪我?」
と聞くとさすがに驚く。
「ちょっとした怪我よ。サチじゃないわ。友達。ただ、先生と少し離れているところでね。それでサチがその子を励ましながら、おんぶしてみんなのところに連れて行って、ヒーローだったのよ」
「そうか…。それは、すごいな」
そんな強い子だったとは知らなかっ…、いや、そもそも、俺は娘のことをほとんど何も知らなかった。
「先生から感謝の電話が来たし、夕方にね、その子の親が直接家にやってきたの。ほら、アイカちゃんのお家よ。あ、知らないか…。まあいいわ。で、アイカちゃんのお母さんの別れ際の一言がね、余計だったわね。立派なお母さんと、お父さんのおかげねって」
そこで明子は言葉を切り、窓の外に目をやった。俺は何も言わずに次の言葉を待った。
「サチの表情がみるみる曇って行くのがわかったわ。だって、あなたのおかげでって言われても、サチからしたら、どんなにお金持っていようと、成功者としてテレビに出ようとも、最低の嘘つきの父親には違いないでしょ?そんな人のおかげって言われても、まだ小さな子には混乱するわよね」
ボロクソ言いやがる…。こいつ、こんなに口の悪い女だったか?
「だから私はすぐに誤魔化して、アイカちゃんとその母親に帰ってもらった。それから、大丈夫、パパもきっと褒めてくれるよってサチに言ったわ。そう言うしかないじゃない? 私もサチのとっての父親の悪口を言いたくないわ。パパは素晴らしい人よ、お仕事頑張ってるのよって言うことが、サチのためになるでしょ」
すべてが自分への嫌味で当てつけなのだろうが、もちろん何も言い返せない。
「そして、サチはうんって頷いて、気を取り直して、食事の用意をして、あなたを待ったわ。でも、あなたからは例によって電話も一本もなく、帰ってこなかった。そして、いつも通り深夜に帰ってきて、朝も酒臭いまま眠っていたわ。それを見て、私の覚悟は完全に決まった。いや、覚悟はしてあったけど、それで後悔が微塵もなくなったってこと。それでサチは今日、母に預かってもらってるわ」
「え?サチは幼稚園、じゃないのか?」
「もう手続きは終わったわ。来週から、違う幼稚園に通う手筈よ」
そうだった。明子はこの離婚話をする前に、すでに完全に準備をして、完了させていた。それが覚悟はしてあった、ということだ。
この日は、確かに俺の人生における最低の日だった。俺の人生には、こうやって最低の日が何度もある。そして、これをふりかえれと?
時系列で言うと、この最低の日の後になるのだろうが、松永に対しては、俺は逃げずに向き合い、素直に話し合った。それで自分の新しい未来が築かれた。
しかし、明子に対して、サチに対して、俺は今どう振る舞うべきなんだろう?どうすれば、この振り返りを切り抜け、課題をクリアするのだろうか?
「なによ、さっきから黙りこくって!どうせまた二日酔いでしょ!話は終わりよ!さよなら!2度と会いたくない!私の人生から消えてほしい!サチが生まれてくれてよかったけど、あなたと結婚生活を数年間送ったことは、私の人生の最大の汚点で後悔よ!」
明子は泣き叫びながら、バックを持ってテーブルを平手で叩きつけて立ち上がった。
このセリフは、以前も言われた。一人の人間からここまで言われるほど憎まれたとは、今更ながら自分のしたことの愚かさで、自分が嫌になる。
明子が部屋を出ていく…。俺はそれをぼんやりと見送っている。何も言えないし、何と声をかけて良いのかわからない。
そして、確かに二日酔いだった。さっきからずっと思考も感情も総動員してたせいで、明子がドアを開けて出ていき、気配が完全になくなると、どっと疲れていた。そして目を閉じてこめかみを揉んだ。
(はぁ、どうしてこんなことになっちまったんだ…。どうすればよかったんだ…)
強烈な眠気がやって来た。このまま眠ってしまおうと思ったが、すぐに頭の中で何かが告げていた。
(そうだ!ここで眠ってしまったら、またやり直しになるぞ!)
俺は眠気を振り絞って立ち上がり、とりあえず何をしていいかわからないが、部屋を飛び出し、玄関を出て明子を追った。
ちょうど、エレベーターのドアが閉じた直後だったようだ。階下を示すランプは、自分のいる11階から、徐々に10、9、と動いている。
(くそ!)
何に対しての「くそ」なのかわからないが、俺はそう吐き捨てて階段を駆け降りた。
この頃から酒の飲み過ぎと不規則な生活で不摂生ししてたとはいえ、定期的にジムで体を動かしていたから、体は軽かった。いかんせん、意識だけの俺は、ついさっきまで末期がん患者であり、何ヶ月も床に臥していたのだ。
(健康ってありがたいぜ)
なんて感激に浸りながらも、身軽な体で階段を駆け降りる。すぐに靴を履いてないことに気づいたが、靴下だから、忍者のように足音を響かせずにするすると降りていく。
しかし、いくら若いとは言え、11階分の階段を一気に駆け降りるのはなかなかしんどい。最後の方は膝が痛くなったし、二日酔いのせいで振動が頭に響く。
階段を降り切り、息を切らしながら一階のエントランスに靴下のまま文字通り滑り込んだ。
エレベーターはすでに1階に到着して、ドアは閉まっていたので、明子はすでに建物を出たようだ。
(くそ!)
またそう呟き、大理石のつるつるした床を走って入り口に向かう。
オートロックの自動ドアはずっと開閉速度が遅いと思っていたが、今日ものんびりと開くので、俺は僅かに開いた自動ドアの隙間に体をねじ込みエントランスを出て、マンションの入り口のドアに手をかける。
しかし、そこで明子が徒歩で駅の方へ行ったのか、車を使って出かけるのかを瞬時に判断しないとならなかった。駅なら右、駐車場なら左に回り込む。
(くそ!)
今日何度目の意味のない「くそ」を口から吐き出してから、明子はなんとなく車で出かけたような気がしたので、俺は入り口を出ると左へ向かった。通常なら、明子の実家は電車で行った方が行きやすいのだが、どうしてか、直感的にそう思った。
数段の階段を駆け降り、駐車スペースへ走る。
「げほっ!げほっ!」
いい加減息が上がって苦しくて思わず咳き込む。さらに靴下でアスファルトを歩く感触も、かなり心地悪いものだったが、そんなことを選んでられない。
明子はいた。俺のベンツの三つ隣にあるスバルの軽自動車。ドアに手をかけて乗り込もうとしていたところだった。
「ちょ…、どうしたの…?」
「明子、はぁ、はぁ、待ってくれ…」
話をしたくても、息が上がって、言葉が出ない。
「とにかく、ちょ、ちょ、ごほっ!ごほっ!」
それ以前に、何を言いたいのかよくわかってないが、話そうとすると咳き込んでしまう。
「なに?どうしたのよ?そんな格好で…」
明子は心配しているというより、とにかく驚きつつ、怪訝な表情だが、
(とにかく、もう少し話をしよう)
と言いたいのだが、咳き込んで声が出ない。
「ごほっ!がはっ!げほっ!ぜほっ!」
やばい、喘息だ。そういえば俺は季節の変わり目に喘息になることが多く、この時期は疲れている時に突発的な有酸素運動をすると、こうして発作が起きるのもしばしばだった。
「ちょっと!また発作じゃないの?薬は?吸入は?」
明子はこちらにやって来て、俺の背中を叩く。何度も、俺が喘息で苦しむのを見て来たのだ。
「ぜぇー、ぜぇー、う、上に、ぜぇー、ぜー」
さすがに、吸入薬は持ち歩いていなかった。
(く、くるしい…。こんなに、喘息って苦しかったっけ?)
「ちょっと、どうしよう、歩ける?一旦、お家に戻りましょう?」
なんとかそれに頷いて、俺は明子に支えられながらマンションに戻った。しかし、どうせ一度は死んでる身であり、最優先事項は俺の気持ちを伝えることだった。
「ま、待て…、明子…ぜぇ〜、ぜぇ〜、俺のは、はなしを…ぜぇー、ぜぇー、お、俺が、悪かった…」
必死にそう言ったが、
「え?なに?もう!喋らないで!」
明子には聞こえなかったようだ。だから明子に引っ張られるままエレベータに乗り込む。
そして狭い空間に二人きりになる。俺の喘鳴音と、機械の唸り声だけが聞こえ、明子が俺の背中をとんとんと叩くが、思えば、こうして二人きりになるのはいつ以来だろう。
「…ぜぇぜぇ、聞いてくれ!俺が、わるかった…!謝り、あやま…げほっげほっげほっ!」
とにかく、謝る。謝りたいんだ。許してくれなんて言えない。許されるとも思っていない。最低だ。俺は最低の夫であり、最低の父親で、最低の人間だ。認める。悪かった。
「わかったわ。わかったから、今はとりあえず…」
「悪かった。すまん…。ぜぇぜぇ」
エレベーターが11階に到着し、明子に背中を支えられながら、家に戻る。
「薬は?いつものところ?」
俺をリビングのソファに座らせると、明子はすぐに引き出しを開いて、携帯の吸入薬を持って来てくれた。
「俺が、全部悪いんだ…ぜぇ、ぜぇ〜」
「いいから!早く吸って!」
吸入薬を3回吸って、俺はソファにもたれかかる。薬が効くまで、数分はかかるし、この後いつも動悸がして、胃がムカムカするのだ。
「お水、持ってくるわ」
そう言って明子は離れようとしたが、俺は腕を掴み、じっと目を見て、咳を堪えてこう言った。
「サチに、会いたい、会って、謝り….たいんだ」
「わかったわ…。でも、今は少し休んで。お薬効いてから、ゆっくり話しましょう」
明子は俺が掴んだ手の上に、優しく自分の手を重ね、そしてもう片方の手で俺の額に触れた。明子の手は女のわりに大きく、本人はそれを気にしていたが、俺はこの力強く、温かい手が好きだった。
「今は、横になってて」
俺は掴んでいた自分の手を離し、ソファに背もたれから横にずり落ちるように、身を横たえる。
「横向きの方が胸が楽でしょ?…なにか温かい飲みもの持ってくるから、そのまま待ってて」
俺は苦しくて何も答えれず、ソファに横になった。
(許されないことはわかっている。こんな風に謝っても、これで自分のバカさ加減が治るとも、懺悔になったとも思わない。本当に、ひどい夫だったし、ひどい父親だった…)
つづく
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