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なにもかもがどこか遠い、そしてこのくらいが心地よい

どこか遠い
なにもかもがどこか遠い。
そしてこのくらいが心地よい。

今日は映画の話をしよう。

最近、こんな映画を観て、とても感動したので筆を取る(実際は筆など取らず、PCのキーボードなのだけど、この表現は好きだ)。

「PERFECT DAYS」

冒頭の引用文は、公式ホームページから借りた言葉だけど、とても共感できたので、使わせてもらった。

主演の役所広司さんは大好きな役者の一人。映画もカンヌ映画祭で主演男優賞を取ったと、妻からそんな話を聞いて何気なく観たのだけど、とても面白かった。

久しく、この手の映画を観ていなかったなとも思った。

観終わった翌朝、妻に「映画、観たよ」と伝える。
「どうだった?」と訊かれる。
「最高だった」そして「フランス映画みたいだった」と僕は簡潔に答えた。

妻は、これから「PERFECT DAYS」観ようとしていて、彼女にネタバレ的なことを微塵でも述べるととても怒るので、ざっくりとした感想しか述べれなかったのだけど、本当にそういう印象があった。

ただ「フランス映画みたい」という表現は、フランス映画を見たことのある人にしか伝わらないだろうけど(と言っても、僕もヌーヴェル・ヴァーグの映画を幾つか見た程度だけどね…)、要するに、現在主流になっている、ハリウッド的手法とは、ある種対極にあるものだ。

そして、フランス映画みたい、つまり、日本の映画やドラマと全然違うという評価だけど、監督がドイツ人なんだね。日本人同志ではこの感性は生まれなかっただろうと思う。

ちなみに上記したハリウッド的手法とは、別にハリウッド映画全てがそうではなくて、要するに、
「派手さ」
「わかりやすさ」
「感情の揺さぶり」
「きっちりとした起承転結」

などのことを指していて、むしろハリウッドより、日本のメインストリームの映画業界、特に、テレビが関わるドラマ業界のやり方になっているかもしれない。

あと子供も含む、広い世代に受ける「アニメ映画」にも、この要素はかなりある。(アニメの方がアート要素のある作品が多いとは思うけどね)

世の中「わかりやすい」ということがなにより重宝される。Youtubeを見てみるといい。学習系、学び系、心理、メンタル系など、すべて「わかりやすい説明」が人気の鍵だ。

この話は後半にあれこれ述べるが、とにかく映画。

賛否両論はあるだろうとは思う。いかんせん何も説明がないからだ。

説明がないって、好きだ。自分で感じたり、考えたりして、その行程と共にストーリーを体験していくのだけど、そういう作品は、結果的に自分と作品との関係性を深められる。

世の中、なんでも説明しすぎなのだ。だから上っ面の関係性で終わることが多いような気がする。

そもそも、なんでも解説され、作品に対する“感想”を決め付けられているような気がする。

テレビのお笑い番組で、笑い声が制作側から添付され、視聴者は「笑うタイミング」を、製作陣に指示されているようなものだ。

笑いたい時に笑うし、つまらないと思ったら笑わない。それを恣意的に作り出されることを「演出」と言えばそれまだだけど、あまりに度が過ぎると「コントロール」している傲慢さを感じて、面白いものも面白くなくなってしまう。

人の感性って、そもそもみんな違うのだ。仮にそっちが「赤」と魅せようが、こっちがそれを見て「青」と感じたら、それは青なんだ。

アートなんてそもそも受け手の解釈に委ねられるべきだ。

しかしここで一つ、考えなければならない。

映画はアート(芸術)なのか? ということだ。

僕にとっては、映画というのはただ感情を揺さぶるだけの安っぽいアトラクションにもなるし、感動を生み出すエンターテイメインとにもなるし、そして魂を振るわせるような、人生に影響を及ぼすようなアートにもなると思っていてる。

世の中、アートもどきが多い。つまり、アートをしようと思ったり、アートしてるつもりだが、アートになってないというか…。

まあ、あくまでも僕の感想だ。あなたはあなたで「映画とは?」「アートとは?」と考えればいい。ここは僕のnoteだから、僕の意見を述べている。

映画というアートならば、あれこれ説明しないで映像や役者の表情などで「表現」することは、一つ流儀だろう。いや、アートに限らず、状況を説明し過ぎるのは「野暮やぼ 」ってもんだ。

例えば、このような小説のワン・シーンがあるとする。

男は部屋のドアを開け、そのまましばらく入口で呆然となって固まっていたが、すぐに何が起きたのかを理解した。
妻は自分が仕事に行ってる間に荷物をまとめ出て行ったらしく、男の持ち物だけが残されていた。
この部屋はこんなに広かったのかと男は思った。思えば本棚もオーディオも、彼女のものだったのだと、今になって気づいた。
部屋の東側の壁には、数年間、本棚が置いてった形に跡に埃が溜まっていて、壁の前には昨日まで本棚に収まっていた男の本が十数冊、丁寧に積み上げられている。
本はすべて男の仕事の関わる専門書の類で、妻は最後までその内容を知らなかった。
ただ、そのきっちりとした書籍の積み方には、少しズボラな妻のやることに、あれこれ口を挟んでばかりだった潔癖症とも言える男に対して、どこか棘があると感じれた。
不動産屋の案内で、初めて彼女とこの部屋を内見した日のことをふと思い出した。
男は立地の利便性や清潔な環境を気に入ったが、彼女は西日とはいえ、部屋の日当たりの良さが、ここを借りた決め手だった。
夕暮れ時の西日が、広い部屋を照らし、微かに浮遊する埃を、ぼんやりと眺めていた。

小説「広い部屋」

状況はこれでわかる。もちろんこの文章も何も悪くないのだろうけど、これはかなり説明をしている。ここで説明を少なくして、情景を中心に表現をする。

広い部屋の片隅には、本棚から放り出されたのであろう、男の書籍が几帳面に積み上げられている。本の周りには、かつてそこの空間にあったはずの本棚の形に、うっすらと埃が溜まっている。
西の窓から斜めに差し込む光が、本棚やオーディオ機器のあった場所の埃と、積み上げられた本を照らす。
しばらく茫然していたが、男は何をして良いのかわからず、習慣的に掃除機を取りに行こうかと思う。ただ、あまりに几帳面に四隅を揃えて積み上げられた本が、彼女の残した最後のメッセージだと気づく。彼女はそういうことを絶対にしないタイプだったのだ。
風もないのに、床に積もった埃の一部が、オレンジ色の光に漂っている。それをぼんやり眺める男の顔には、どんな感情も見出せなかった。

小説「広い部屋(改)」

圧倒的に、後者の方がわかりずらい。

男の几帳面さも、妻の性格も説明はしていない。「男は几帳面だ」とは文章説明せず、几帳面で潔癖な性格があることを状況説明している。彼女、と書いているが、妻なのかどうなのかもわからない。

でも、考える分だけ、感受性を働かせる分だけ、受け取り方は違う情報量が、説明された時よりも増えるのだ。

しかし、世の中の主流は、いかにわかりやすく、視聴者の感情を動かすがポイントになっている。感情のぶれを「感動」と呼んだりして「今年1番泣ける!」とか、そんなキャッチコピーがもてはやされる。

これは映画に限らず、あらゆる業界が、この状態になっていて、個人の「深読み」「考察」とか「独自の洞察」「個性的な感性」がなくなりつつある。

だから深読みする人の意見を聞いたりするチャンネルとかも多い。だれか「すごい人」の洞察を、また「解説」として受け取って、分かった気になる。

社会全体が、思考力と感性、感受性が見事に低下していると思う。

だから「わかりにくい」=「面白くない」とか「質が悪い」という評価になってしまう。

わかりにくいのは、作品や説明のせいなのか、自身の理解力や想像力の欠如とは思えないのだ。

しかし、そんな中で「PERFECT DAYS」のような映画が評価を受けるのは、僕にとっては、とても喜ばしいことであり、世界への希望に感じた。まだまだ、世界は感受性を失っていない。

頭の世界で積み上げられた世界に、思考を使ってこねくり回すのをやめて、感覚や感性、肉体性を駆使して、あらためて世界を見直すターニングポイントだと思う。

それにしても、良い映画を観た後は気分がいい。

何か余分なものが自分から抜け落ちたり、または、何か必要なものが、自分の足りない部分にカチッとハマったような感覚になる。

映画の話をしたので、他にも昨年観たもので印象的な作品をいくつか。

これ、傑作でしたね。タイプリープもの、と呼ばれるSF要素があるんだけど、とにかく面白い。オチも最高でおすすめです。

隕石が落ちてくる。そんな時、地球人はどうなのか?

こちらは長い作品だけど、人間の愚かさをリアルに描いた作品。笑いあり、でも、考えさせられる内容です。

もし、「平行宇宙」とか、「引き寄せの法則」とか、その手のスピリチュアルな概念が好きな人なら、なおさら面白いかもしれない名作。

上の三つは、それぞれ一個のnoteに書けるくらい、お気に入りです。

あと、こちらも最近観たんだけど、

怪物。是枝監督の最新作。

まあ、是枝節これえだぶし って感じかな。

謎めいた構成で、複数人からの視点で展開されながら、徐々に明らかになっていく事実…。

でも、これも説明し過ぎてないところがよかったかな。

大人と子供。子供から少年へ変わる頃。親子。教育。色々と要素を詰め込んだ内容だけど、あまり良い気分になる映画ではなかったかな。

他にも、息子の勧めでアニメ映画などはいくつか観たけど、そこは割愛させていただく。

そしてこれはまったくおすすめはしないけれど、年末にこれを観た。

クエンティン・タランティーノ監督の名作(?)、「パルプ・フィクション」を久々に観た。

「人生で1番多く観た映画は何か?」

と質問されたら、僕は迷うことなくパルプ・フィクションと答える。迷うもなにも、事実として、多分10回くらい観ているからだ。

なんでそんなに観たのか? 何度もリピートしたのは、20代前半だと思う。レンタルビデオ(当時はまだビデオだった)で観たのが最初で、その最初で、4、5回立て続けに観たのを覚えている。

その後も、定期的に観た。DVDのレンタルだったり、サブスクだったり。

そんなに面白かったのか?と訊かれたら、ただただ「衝撃だった」から。としか答えられない。

むしろ「面白い」とか「面白くない」という評価が下せず、僕は初めてこの映画を観た時に混乱すらした。

それは初めて尾崎豊の歌を聴いた時や、レッド・ツェッペリンの音楽を聴いた時、村上龍の「コインロッカーベイビーズ」を読んだ時と似ていた。要するに「電撃」のようなもの。10代の感性とはまた違う電撃だったけど、とにかく衝撃的だった。

良い、悪いとか、合う、合わないとか、そういうのを通り越した感覚であり、むしろ不快感すら伴うのに、気になって仕方なくなり、ハマってしまう。

この映画は僕にとってそんな映画であり、久々に観て、相変わらずイカれた内容に胸が踊った。

ジョン・トラボルタ(ギャング)と、ユマ・サーマン(ギャングのボスの女)がツイストを踊るシーンは、なぜか印象に強く残っている。

何か、おすすめの映画あったら教えてください。または、あなたが「最もたくさん観た映画」や「最も感動した映画」「最も印象に残った映画」など、コメントしてくれると嬉しいです。

⭐︎ 和の歩法

新曲


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オオシマ ケンスケ
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