山と瞑想の日々 ー 女人禁制の聖地での「荒行」 ー
日本は国土の大半が山林なので、日本中登れる山がたくさんあります。低い山、高い山、登りやすい山、難儀な山…。たくさんの個性の山があります。
現在もトレッキングはブームであり、レジャーに、スポーツに、多くの人が日本の山々を楽しんでいます。
しかし、トレッキングが「レジャー」という“娯楽”となったのは、近代からでしょう。江戸時代までは「登山=山岳信仰」であり、江戸から近いところだと神奈川県の「大山」の登山とか、富士山の登山も、すべては信仰対象でした。江戸時代ももちろん娯楽要素はあっただろうけど、信仰とセットでしょう。
そんなわけで、日本中の山々には山岳信仰の名残がたくさん残っていて、都会からのアクセスが不便で、険しい山ほど修験道者や僧侶たちの「修行の場」にふさわしく、山頂や山頂付近には仏像や寺院や神社の社があります。
僕が登山好きになったきっかけは「八ヶ岳」ですが、ここももちろん山岳信仰の歴史がありました。
地元の山を登ると、やはりいろんなところで山に登りたくなるのが山好きの性(さが)です。ついでに僕は「旅好き」なので、旅先で登れる山があったら登りますし、いかんせん山岳信仰などにおける、いわゆる「パワースポット」的なアレなので(笑)、その手の場所に足を運ぶのは好きです。
修験道の「聖地」と呼ばれる山は日本中にたくさんありますが、「修験道のメッカ」と呼ばれる山があります。
それが奈良県吉野郡天川村にある「大峰山」です。修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)のお膝元です。
この山は今でも伝統に則り「女人禁制」を貫いています。
もちろん、法的な拘束力はないので、女性が入っても罰せられることはありませんが、あえて女人結界を破って入ろうとする人はいないでしょう。
……と思ったら、「女人結界解放を求めます!」という運動をしている団体がいて驚いた。
この団体の言い分としては、修験道の伝統は「女性差別」なんだとさ…。もしこの人たちに「じゃあ僕が女性専用車両乗っていいですか?」と言ったらガチボコにしてくるでしょうけど、それは「女性の権利を守る」と言うんだろうね。
ちなみにそれらの宗教的な「伝統」には、そのなっただけの然るべき理由がある。でも多分、この団体の人たちには、それを言ってもわからないんだろうな。そもそも、うまく言葉で言えないものだし。
そして、本来は「女性を守る」ためのさまざまな伝統があり、それが形式化、形骸化しているのも事実。だからこのような団体が出てくるんです。
話を戻します。
2018年の8月。奈良県天川村までのアクセスが大変なので、麓の洞川(どろかわ)温泉で一泊してから、山へ行きました。
大峰山は山頂までの登山コースとしては、難易度が高い山ではないです。ただ、この時点ではまったく知らなかったが、山で「修行」をお寺に申し込むと、なかなか“エグい”体験ができる。しかし、事前にそういうことを調べていなかったので、伝統ある山とはいえ、気軽に登って行った。
白装束の修験道者の格好して、六根清浄(ろっこんしょうじょう)と唱えながら歩く人たちがたくさんいます。すれ違う時などは「ようまいり〜」と挨拶をするのが習わしです。
「よう(お)参り(しにきました)」という意味だそうです。
気分を盛り上げるため、こんな鉢巻を買って登りました。
山頂手前、
「日本三代荒行・西の覗き」
という看板がありました。何やら、岩場の断崖絶壁を、文字通り「覗く」という荒行ができるとのことで、もう少し上にある「龍泉寺」で申し込むとその行にチャレンジできるとのこと…。
(うーむ……)
日本三代荒行…。なんて魅惑的な言葉なんだ! と、感じる僕が変態なんでしょうか?。でも僕にとってこの言葉の響きは、ハニートラップだと疑いつつ美女の誘惑に逆らえない政治家のようなものかもしれません。(違うかもしれません。政治家じゃないし、ハニートラップは今の所経験ないです)
先に言っておきますが、僕はむちゃくちゃ“怖がり”です。こちらのnoteでも書きましたが、
高所ではキンタマちぢみ上がって、膝がガクガクになりました。
自分で企業して、個人事業主としてチャレンジするのも、超怖かったです。生来のびびり症なのです。だから人一倍、いや、100倍慎重派であり、石橋を叩いて叩いて結局渡れない、みたいなことも人生でなんどもありました。
しかし、そんな「荒行」ができるチャンスを、このまま見過ごせと?
そもそも「人生楽しんでナンボだよね?」をモットーにしている僕に、こんな面白い「ネタ」をスルーしろと?
(や、やるしかない…!)
「男ならやるしかない!」と思いました。そもそも女の人はここに来れないんだけど、ここに来て荒行しないなんて俺の男がすたる!と思ったのです(かと言ってやらない人を男じゃないとは思いませんよ!)。
龍泉寺の宿坊があったので、ドキドキしながら行ってみました。
中にはおじいちゃんなお坊さんが一人いました。
「あの〜、えっとですね、下の看板にあった、西の覗きっていう、荒行をやってみようかな、なんて思っているんですが、あれはここで申し込めばできるんでしょうかね?」
緊張してそう伝えると、おじいちゃんは、
「あー、今若いもんが出払ってて、今日はわししかおらんからできないんだ〜、すまんのぉ」
と、断られてしまいました。
「あちゃー!それは残念!ついてないなぁ〜!いや〜、それは仕方ない!今日ができない日なら仕方ない!うーん、残念!やりたかったんだけどなぁ〜」
と言いつつ、実は、「ほっ」としていました。だって怖いじゃん?でも、「やる気」は見せたのです。「漢(おとこ)」は見せたのです。これで十分じゃないですか。残念でよかった!
そんな自己矛盾を抱えつつも、気を取り直して、意気揚々と山頂へ行きました。
大峰山、はこの辺りの山の総称で、山頂は「山上ヶ岳」。標高1719m
いろんな山へ登っていますが、ここに来て一番感じたこと。
それは「清々しさ」です。
とても清らかで、澄んでいるのです。この澄み渡った軽やかな清々しさは、その後も色んな場所に行ってますが、大峰山山頂で感じたものを超えていないという体感があります。
そして「優しさ」です。
山って、やはり険しさがあり、厳しさがあります。どこに行っても、大自然の優しさと厳しさがあり、そこに挑んできた先人たちの雄々しく、荒々しい厳しさがある。しかし、大峰山で感じるものは、なによりも優しさ…。
どうしてだろう?
純粋にそう思いました。
だって女人禁制ですよ?女体は入れないんですよ?つまり、ここに来るのはもう1000年以上、「野郎ばっか」の世界です。
「男だけ」
「男の世界」
「野郎ばっか」
うーむ、こうして文章に書くだけでドン引きです。
常に女に囲まれ、女にちやほやされ、女に愛され、そして女を愛してやまない(そして恐れてやまない!)僕にとっては、そんな野郎ばっかの世界なんて考えただけで身の毛がよだつ!(だったらなして行ったん?)
だから女人禁制の「男だけの世界」なんて、さぞかし汗臭く、暴力的で、破壊的で、野蛮なイメージを持っていたのですが、その印象とはまるで正反対の空気感ではないか……。
(はっ!そうか!)
気づきました。どうして、こんなヤローばっかの世界が、これほどまでに澄み渡っているのか?
それは「男だけ」だからです。
男は攻撃的で、男は支配的で、男は上下関係を作る…。これら「雄」の行動原理って、そもそも「女」がいるからなんではないでしょうか?
どの動物も、雄たちは熾烈な争いをします。おとなしい草食動物でさえ、繁殖期にはメスを巡って、闘争本能剥き出しでガチンコバトルします。
交尾したい。つまり「やりてぇ!」って気持ちが、普段はおとなしく草を食べてる穏やかな動物の雄たちを駆り立てる。
そもそも、どうして雄が発情期に入るか?
それはメスが発情期になり、性ホルモンダダ漏れのフェロモンぷんぷん状態になるからです。だからオスはその匂いに反応して、闘争本能が湧いてくる。
男の性欲には「攻撃性」があって、近親相姦が起きない仕組みの一つでもあるそうな。身近な家族に攻撃はしないもんね。
女性がいない山。それも1500年くらいの伝統の山奥。メスのフェロモンは皆無。そこでは男性たちは攻撃性はなくなるのでは?それがこの清々しさを生んでいるのでは?
つまり、地球上で2000年以上続く、男性原理のピラミッド社会は、実は女性たちの放つフェロモン物質によって助長されていたのではないか?と新説を唱えたくなるほどだった。
そんなわけで、山頂でとても清らかな気持ちになりました。山頂で目を閉じるだけで「賢者モード」です。ナチュラルに賢者状態になれる場所は日本でも数少ない貴重な場所でしょう。(賢者モードや賢者状態は、男にしかわからないかもな…)
さて、そんな清々しい気分を味わい、下山することにしました。満足です。何も思い残すことはありません。
しかし、僕はそこでどうしてそんなことをしてしまったのか、先ほどの龍泉寺へ立ち寄ったのです。
なぜなら、なんと宿坊の入り口では「麦茶」が飲み放題だったからです!
夏です。まして山登りした後にキンキンに冷えた麦茶なんて、労働の後のビールと同じくらいの美味しさがあります。そしてどうせそのお寺の宿坊は通り道ですし。
宿坊、と言っても広い土間があり、入り口付近に「ご自由にどうぞ」と書かれた麦茶の入ったサーバーがあり、僕はそこで冷えた麦茶を飲んでました。別に誰に挨拶する必要もないです。先ほど話したおじいさんも奥にいますから。
と思っていたら、
「お!さっきのにいちゃん!いたいた!」
と、先ほどの老人がこちらへやってくるではないですか。
「よかったよかった!さっきな、わかい衆が一人帰ってきたんだ。だから西の覗き、やれるよ!」
「……え?」
「おーい!」
寺の奥へ声をかける老人」
「覗き、1名入るぞ!さっき言ってた人が来たから!」
(いや、あの…、その…)
奥から出てきたのは、すらりとした男性。カラス天狗のような足取りの、屈強でしなやかな鍛え抜かれた体つきをしていた。
「お兄さんですか?西の覗き?やらはりますか?」
若いが、渋い声で僕に尋ねる。
「そうそう、この人だ。さっきは誰もおらんから断ってしまってなぁ」
(いや…、ちょっ…!なに勝手に答えんだこのじじい!)
「わかりました。では、参りましょう!」
若い修行僧は、そう言って膝を叩いて、感慨深そうな表情をして僕をうながす。
「にいちゃん、よかったな!」
おじいさんはニカっと笑って我々を送り出した。
「…はい…。よかったです」
僕はこの時、二つのことを学んだ。
一つは、何事も「心の準備」が必要だということ。心の準備なしでは、かなりテンパる。心の準備って超重要!
そしてもう一つ学んだことは、人生とはこのように心の準備なしで、油断して呑気に麦茶なんか飲んでいる時に、至極切実かつ重要なことが決定してしまうということだ。
歩くこと10分弱。そしてついに来てしまった。
「西の覗き」という荒行は、一体何をするのかというと、このお兄さんに足を押さえてもらって、行をする人は崖から逆さまにぶら下がるのだ。岩場の崖下を覗き、死を覗く行。
案内してくたお兄さんは、まずは自分自身を岩場に繋いだ鎖でしっかりと結びつける。そして、行の説明をしてくれる。そして神妙な顔をしてこう言った。
「お兄さんも、この行を受けると決めたからには、きっとさぞかし、強い祈願や、手放したい想いへの覚悟があるんやと思います」
「…はい」
実は「ただの興味本位でした」とは言えない雰囲気だったので、こちらも神妙そうな顔をして頷いた。どこか後ろめたさを感じつつ…。
彼は低い声でお経を唱え、一緒に仏像に手を合わせ、祈願。何を祈願するのかと言っても、普通はこの行に挑むにあたり、願望成就とか、安産祈願とかあるそうだが、なんか知らんうちにこんな流れになり、とにかく「安全」を祈る…!
そして崖へ行き、僕はロープを肩に引っ掛ける。リュックを背負うように、2本の輪っかを肩にかける。結ばないのだ。
「ぶら下がったら、手をしっかり結んでください。手が解けていると落ちるかもしれませんからね」
笑顔でそんな大雑把な説明を受ける。
手を結んでいても落ちるかもしれないじゃんと思いながら、とにかく崖の手前でうつ伏せになる。
「ほな、行きます」
ここでもあまり心の準備のないまま、横になるやいなや、いきなり体をぐぐいと押し出され、ざざざっと、上半身が崖にぶら下がる。
「ひぃっ!」
と、ナチュラルに声が出てしまったのは人生で2度目の体験だった。1度目は昔住んでいたアパートで、壁から手が生えてきて、腕を掴まれた、という心霊体験の時だったが、とにかく人は心底恐怖すると「ひっ」と言ってしまう。
岩場の崖に、ぶら下がる体。足は抑えられているとはいえ、必死で手を結んで、ロープが解けないようにする。
「人生を真剣で生きる覚悟はおありか!!」
お兄さんがそんなことを言うが、
「は、はひ!」
と、情けない返事しかできない。だって目の前、崖です。体、半分落ちてますから!
「〜〜の覚悟はあるか!」
と、他にもあれこれ覚悟がどうのこうの言ってたけど、実は内容は覚えていない。
さらにずいずいと体を押し出される。
そして彼はお経を唱え始めた。
僕は崖にぶら下がりながら、恐怖に身を晒す。
もしこの人が「へっくし!」とか言ってくしゃみでもしたら、一貫の終わりだ。もし今大きな地震でも来て手を離されたら、命は消える。またはこの若い修行僧が「こいつ、イケ好かねぇな…」と思って故意に手を滑らせたら…。
なんていう状態だろう。これを読んだあなたは、あなたの人生でここまでたった一人の人に自分の命を委ねたことがあるだろうか?
登山をしていると、上のnoteの戸隠山など、“危険箇所”は付き物だ。しかし、そこでの危険は「自己責任」の世界であり、自力で頑張るしかない。
だがこの行は「100%他力」だ。自力を出しようがない。
これは大きな手術前の患者が医師に身を委ねるよりも怖いのでは?だって、今この場には二人きりだ。
「ちょっくら荒行やってくるわ!」と、家族にも誰にも言ってない。こんな頭のおかしい修行があったなんて知らんかった。だからもしこの場で死んでも「不幸な滑落死」として、この若い修行僧は簡単に隠蔽もできる。
お経が続く。その中で文字通り全身全霊で恐怖を感じまくる。
(ああ、これで死んだら、息子にもう会えないんだ…)
こういう時に、真っ先に息子のことを思い浮かべるもんだなぁと、後から思ったが、とにかくこの時は、息子、そして妻と会えなくなるかもしれない可能性を、超超超リアルに思ってしまった。
しかし、そんな破天荒な状態も「慣れ」というか、途中で「諦め」が出てくる。
これは僕の良いところなのか悪いところなのか、
「まぁ、いいか…」
と思えた。ここで死ぬなら、それまでの人生だし、肉体が滅んでも、自分の本体は死なないし…。
そう考えると、すぅ〜と恐怖心が引いて行った。不思議な感覚だった。いや、怖い感覚はある。でも、「怖がる自分」との同化がなくなったのだろう。完璧に俯瞰できていた。
生きるって、なんとも不思議だなぁ〜、なんて崖の下を眺めながら考えていると、お経が終わった。
「では、上がってください」
そう、なんとこの行は基本的に自分の腕で体を押し戻すのだ。軽く足を引っ張ってくれるけど、自分で戻る。ここまでやって荒行。
TシャツにGパンという出立ちだったが、岩場をずるずると行ったり来たりしたおかげで、お腹や太もものあたりは擦り傷だらけになった。
終わった…。無事に、生還…。
そして、再び不動明王の仏像に手を合わせて、感謝。本当に感謝。
「上で、お茶でも飲みますか?」
と言われたが、もう一度宿坊まで登るのもめんどくさいのと、とにかく一人でぼんやりしたかったのでそれは丁寧に断り、その岩場でしばらく座っていた。何も考えれなかった。疲れた、というか、なんというか、今まで感じたことのない疲労感だった。しかし、気分は不思議と軽かった。
すぐに、修験道の格好をした集団が登ってきた。その人たちを引き連れていた山伏の男性はお寺の人らしく、先ほどまで僕の足を持っていた修行僧と顔馴染みの様子で、
「西の覗き、今からできる?」
「ええ、大丈夫ですよ」
と、気さくな感じで、チャレンジする年配の男性が現れた。僕はその様子を近くで見ていた。
先ほど、僕がやったように、鎖を巻いて、お経を唱え、仏像へ祈願する。準備が整ったら、お寺のお兄さんは、山伏のおじさんに、こんなことを言った。
「僕一人だけで足ささえるの危ないんで、一緒に足持つの手伝ってください!」
(……え?)
そして、山伏の男性と二人がかりで、行を行う男性の足を持つではないか。
(いや、さっき一人でやってたけど、本当はちょっと危なかったんじゃん!)
まあ、とにかく無事に済んだのだから何も言うことはないが、何か納得しかねるものがあった。
行をやった年配の男性に、話しかけてみた。
「西の覗きは、何度かやってるんですか?」
「ええ、僕は4回目です〜」
関西弁のイントネーションで気さくに答えた。
「よ、よん…!」さすがに驚く。「すごいっすね。やっぱ、4回目ともなると恐怖心はないんですか?えらい落ち着いてるように見えましたけど…」
「いやいやいや、何度やってもあかん!怖いで〜、怖さはなくならないようですわ!」
とのこと。
うーむ、やっぱ怖いよね。これが怖くなくなったら、何か人としておかしいのかもしれない。
その男性がやったおかげで、他の人もチャレンジすることになった。僕はそこでその場を引き払い、山を降りた。山を降りて天川村の日帰り温泉に行ったら、全身擦り傷だらけで驚いた。そして当然お湯が染みた。
以上が、大峰山での体験である。今考えても、一体誰がなんのためにあんな意味不明な根性試しを考えたのかわからないが、僕的には大いに得るものがあった。未知の領域に踏み入れた。
だけどまったくもっておススメはしませんね(笑)。そして、ここは女人禁制でいいと思います。そういう場所があってもいいじゃないですか。そこでは男たちは、賢者モードを発揮させ、エネルギーを自分に向け、こんな荒行をやってしまうんです。
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11月27日(日)歩く瞑想、弘法山 残り1
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12月4日(日)女性性を巡らせる“音体験” in 大阪
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