「遊ぼう」意味のない時間を
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自分が誰かに、例えば親に「〇〇と遊びに行くね」とか、「〇〇くんチに遊びに行った」みたいな事を言う分にはまだしも、その前段階で発生する、学校などで「今日遊ぼうよ」みたいな会話や、友達の家に言って「あーそーぼっ」と玄関で声をかけたり。
当たり前に使っていた。「遊ぼう」という言葉。
「遊ぶ」「遊び」という名詞ではなく、「遊ぼう」という誘いは、英語で言うなら「Let's play」になるわけだ。
この言葉、高校生くらいまで普通に使っていたと思う。「明日、遊ぼう」とか、電話して「今日ヒマか?遊ぼうよ」みたいに。
でも実は、高校生くらいになってから「遊ぼう」という言葉に違和感があった。それはシンプルに「遊ぶ」ってなんだろう?という疑問だった。
すごくどうでもいい話を書いているのはわかっている。すごく意味のない話をしている。
「え?遊ぼうっていったら、ただ好きなことやるだけでしょ?」ってことだ。小学生ならそれが野球や鬼ごっこやドッヂボールやサッカーや、テレビゲームをすることや、駄菓子屋に行くことだった。
遊びは、年代によって変わる。中高生になると、小学生と同じ遊びをすることはない。それはただ集まってタバコ吸って話こんだり、恋愛の話をしたり、女の子と合コンやらデートっぽいことをしたり、ちょいと悪さをしたり、喫茶店やバーガーショップにたむろしたり…。
どうしても「あそぼう」と聞くと、小学生の「遊び」が俺の中にあまりに根付いていて、俺は「遊ぼう」という言葉に違和感を持ち、さらに自分自身は決して言わなかった。具体的に「今日は麻雀しよう」とか「今日はナンパ行こう」誘ったりした。
もちろん10代の頃は、目的がなくても行動できた。だから「遊びに行く」とか「遊びに来いよ」は使っていたが、漠然とした「遊ぼう」は言えなかった。人から「今日遊ぼう」と言われると、つい「何をして?」と言い返しまった。
なんでこんな話をしてるかと言うと、ふと、近所を歩いていて耳に入った親子の会話。「あそぼー」という子供の言葉。記憶って面白いもので、その一瞬で、息子が小さかった時のことを思い出した。
「お父さんあそぼー」と、ちっちゃかった息子によく言われた。
俺はぶっちゃけ子供と遊ぶのは苦手だった。いや、過去形ではなく、今も苦手だ。好きではない。だから保育園とか幼稚園の先生とかすごいと思うし、子供の相手がうまい人って尊敬する。それって才能だよ。
俺は息子の「遊ぼう」にも、なんだかうまく応えてあげられなかった。多分、よく遊ぶ父親だったと思うが、それでもめんどくさそうにしていたと思う。
そんなことを考えると、俺が家族以外の誰かと「遊んだ」のはいつだろうか?なんて思った。
もちろん「飲みに行く」も「動物園に行く」も「飯を食いに行く」も、「遊び」であるし、俺にとってはここ数年は仕事と遊びが同義になっているので、常に全部遊んでいた、とも言えるけど、なんだか違うような…。
「お父さん、あそぼーよ」と言った息子の感覚や「あーそぼー!」と玄関の前で小学生の仲間と大声で誘い合っていた感覚と、大人になってからの「遊びに行こう」は、やはりずいぶんと違う。
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