滝行リトリート(探求文庫番外編)
☆ お知らせ
自分を創造する。人生は創造される。「vision」を視る。それが体験となる。
東京 8月20日(日)
大阪 8月27日(日)
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先日、二日間の御岳山でのリトリートを終えました。
こちらの投稿でもあれこれ書きましたが、とにかく素晴らしい体験でした。
「ケンスケさんがいつも言ってる“切実”って、こういうことですね」
「今ここって、まさしくこれですね」
メンバーからそんな感想もありましたが、滝に打たれてる時、特に慣れていない時なんて、とにかく「思考がぶっ飛ぶ」体験があります。
今回は古式神道の作法に則り、滝に打たれてる時は、
「はらえどのおおかみ!」(祓戸大神)と連呼するのですが、これを最初は3回✖️3。次は3回✖️5。次に3回✖️7。
肩や背中、頭に落差10メートルの綾広の滝の冷たい水とその水圧を受けながら唱えるのですが、もう数なんて数えていられない。
みんな必死の形相で唱えましたが、この時は他のことなんて考える余裕がありません。
(唱えなきゃ)という微かな思考を頼りに、もう無我夢中で耐えて、大声で唱えます。切実な思いです。それ以外のことは頭にない。
もちろん、滝行は我慢大会ではないのですが(言うまでもなく、遊び気分ではやってはいけません)、やはり「慣れ」というのはあります。だから初めての人なら、水の冷たさと水圧で、心の余裕は皆無になります。
僕は何度もやってるので慣れているから、楽しむことができ、滝の轟音と真言の中でも、平安と静寂のようなものを感じれるようになりましたが(このくらいの温度と水圧なら)、それでも「思考」というレベルでは、普段の思考状態とはまるで違う状態になります。
スピリチュアルとか精神世界では「今ここ」は一つのキーワードで、マインドフルネス系の瞑想でも「Now and here」になることで、意識をクリアにしていきます。
しかし、本当に「今ここ」に在るって、やってみるとわかりますが、本当に難しいです。僕らの脳はそういう構造になっていません。常にさまざまな事柄に注意が向くようになっています。
多くのスピリチュアルの提唱者が、「今ここ」を概念や言葉として扱い、それが一人歩きしていて、体現できている人ってなかなかいないのでは?と思います。
自分自身や家族の大きな病気や大怪我などを通して、人生が変わる方っていますが、それはその時完全に「今ここ」であり、そこでの祈りは「切実」です。
僕も、自分が呼吸不全で死にそうだった頃に、やはり完全なる「今」という世界や、物質世界でない領域に足を踏み入れました。
もちろん滝行はちょっと極端な選択肢ではあります。だけどイマココの「体験」としては、なかなか他では得難い実践にはなります。
ちなみに7月で、最近は猛暑ですが、早朝5時、標高800メートルの川の水は当然冷たいです。サウナの後に水風呂入るのとはわけが違う(笑)
頭がくらくらするほどの、いわば生命的には「危機」を感じるような状況だからこそ、意識は削ぎ落とされます。
二日間、山を歩きまくりましたが、山歩きもそうですね。
都会にいるよりも、意識がクリアになるのは当然ですが、足元を注意しながら、自然を観察し、感じながらで、余計なことをあまり考えなくなります。
だからこの二日間、非日常体験の中で、さまざまなヒントがあったと思いますし、僕自身、自分の「vision」に対する確信と、自身がこれまで研鑽し、探究してきたことの一つの答え合わせにはなりました。
今回、滝行指導をしてくださったのは、宿坊「山楽荘」の神職、片柳至弘先生。
片柳先生は80歳を過ぎてるとは思えない、パワフルで、快活、元気はつらつ、しかも明るいし面白い。(ユーモアって大事ですよね)
とにかく一緒にいて、こちらも元気になっちゃうような、そんな方です。
スピリチュアルだのなんだの、僕は「頭」でやるものではないし、「知識」や「思考」だけでは“危うい”とすら思ってますが、こうして山に暮らし、神職をしながら、宿を経営し(素晴らしい宿です!)、精神、肉体、共に修行をしてきた人。
まさしく「体現」している人です。
彼が言う「できる!」「大丈夫!」「水は冷たくない!」という言葉は、上っ面のものでも、ふわふわしたファンタジーでもありません。
厳しさの中に深い慈愛があり、優しくも厳格なものを秘めています。
滝行の話の前に、ちょっと個人的な話をさせていただきます。
「古式の行法に習った、力の抜けた見事な歩き方」
終わってから、片柳先生にそんなことを言われました。
(よく見てらっしゃる!)
と驚くと共に、とても喜ばしかったです。なぜなら僕にとって「歩く」とは、自身の探求の中でも大きなウェートを占めていて、ワークショップでも「日本人の歩き方を取り戻す」とかやってるくらいです。
古式の行法、と言われましたが、僕はそういうものを誰かかから教わったことはありません。自分なりに調べ、あーでもない、こーでもないと、色んな体の使い方、動かし方、歩き方を創意工夫して「日本人のあるべき歩き方」を見つけていったので、それがやはり伝統的なものに近かったと言うのは、僕の中で一種の答え合わせになりました。
そしてもうひとつ、
「彼と一緒に歩けば、みんな小鳥のように軽やかに歩けるよ」
とメンバーに言っていたのも嬉しかったです。
僕がここ4、5年続けている「歩く瞑想」などの、とにかく一緒に「歩く」というイベントの目的が、見事にその言葉に表れているからです。
これは自慢ではなく、そういうことってあるんです。瞑想熟練者と一緒に座ることで、自然に瞑想が身に付くのと似てるのかもしれませんが、体の在り方が調った人と一緒にいるだけで調う、なんてことが起こります。
山の歩き方、疲労回復の方法など、そういう実践的な話もしますが、実は僕は「ただ一緒に歩く」ことこそ、 僕が培い、習得したものを、無言のうちに伝える一番の近道だと思ってますので、これも、僕の中での答え合わせでした。
でも、そんなに僕のことを見てるように思えなかったけど、見てるところは見てるんだなかと、その観察眼や、みんなへの気配りには驚かされました。
さて、滝行ですが、片柳先生は、『古式の滝行作法』で指導してくださいました。現在は、きっちりと作法を守る滝行指導は、全国でも少ないとのことです。
僕は滝行をやってきた……といってもフリーで、つまり、勝手に山の中で滝に打たれることしかしてこなかったので、今回のように正式な作法に乗っ取り「行」を行うのは初めてでした。
女性たちは白装束で。
朝5時に、宿坊の神前で祝詞を唱え、武蔵御嶽神社の麓で鳥居で参拝し、奥宮の入り口でも参拝し、天然の山水で口をすすぎ顔を洗い、いざ滝へ。
片道45分ほど。滝に着くと男性はふんどし姿になり、そこから滝を守る神々にご挨拶。神道に伝わる体操や、大声を出して「神を下ろす」儀式などを行い、気合を高め、水に入ります。
ここからは、あらわな姿が多いので(笑)探求クラブメンバーのみの閲覧です。
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