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どこへ行く?何をする?誰とする?(無料記事)

息子がまだ小さい頃に、とても痛感したことはたっくさんあるし、今でも思い返すたびに、様々な後悔や、失態失敗失念からの、気づきや学びがあるのだが、子育てを通してたくさんの真理を学んだ。

我々はいつも「外側」に目を向けている。外側の充実さこそが、人生の豊かさだったり、幸福だと思ってしまうフシがある。

しかし、子供は違うのだと、息子を通して知った。

我が家は定期的に秩父とか、熱海とかの温泉に一泊旅行をしていた。あと、千葉県に妻の両親がその頃はまだ健在だったので、定期的に千葉へも行っていた。

息子も楽しんでる、と思っていた。それと、週末には頻繁に、青梅や奥多摩へ車を走らせ、川辺で遊んだりしていた。息子は楽しそうだった。だから、どこかへ連れて行ってやることが、息子の喜ぶことだと思っていた。

しかしある時、

「どこに行きたい?」と尋ねると、

「公園」と答えた。当時、練馬区の大泉学園近辺に住んでいたが、家の目の前が公園だったのだ。

実は大抵「どこに行きたい?」と聞くと、「公園」と言うことが多かった。まだ4歳前後の頃だ。

そうか、息子は「どこかに行きたい」のではなくて、“両親に遊んでほしい”が望みだったのだと、はっと気づいた。

子供にとっては、「どこへ行く」よりも「何をする」が優先であり、さらに「誰といる」が一番重要だったのだ。

そして、計画を立てるよりも、「今」だった。遠くに出かける移動時間よりも、今ここで遊びたいのだ。

しかし、なかなかそれをわかってやれなかったなぁと思う。頭でわかっていても、どこかに連れて行ってぐずられると「せっかく連れてきてやったのに…!」と、今思えばひどい親だが、本気でそんなことを思ったりもしていた。

子育てに正解なし。大抵の人が悔やむ内容の一つや二つ、10や20は持っているものであり、歳を重ねて、孫ができるくらいになってから「今ならもっと上手くやれる!」と思い、孫にちょっかいだそうとして、息子夫婦、娘夫婦に煙たがられるものだ。

子育て論に関しては、日本の江戸時代がかなり理想的だ。もちろん、今のような核家族ではなく、地域コミュニティがあったからこそなのだが、当時の子育てのメインは、祖父母と父親であり、母親は乳飲み子を卒業すると、かなり自由気ままに遊びまわっていたという記述もある。

「お母さんが笑顔だと、家族も笑顔」と言うもんだが、まさしくそれができていた。祖父母は経験豊富なので、子育ても寛容。父親はよく働くが、場合によっては職場に子供を連れて行く。みんな連れて行くので、そこで子供達同士で遊ばせておける。

まあ、現代社会と子育て問題は、まずは大人たちの「人間関係」の希薄さを変えていかないと、なかなかスムーズにはいかないだろうとは思う。

話を戻すが、子供はまさしく「今ここ」であり、「両親」という、もっとも目の前の人から愛を求めるのだ。

我々大人も、本来はこういうものなのではなかろうか?いつもあれこれ計画を立て、時間を有意義に使おうと、損をしないように、退屈しないように、少しでも楽しめるようにと、思索を巡らす。

その創意工夫たるや素晴らしいものではあるけれど、何か人として本質を見失っているような気がしてならない、なんてことを思うのだ。

今日も今ここを生きる。人として、本来の「幸福」って、どこか遠くへ行く必要はないし、どこか外側の世界に求めることでもない。

子供が教えてくれたこと。

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