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私の居場所(掌編小説)
「アイコさん、俺と結婚しよう」
泰二さんが、おもむろに私に言った。私が突然のことに戸惑っていると、彼は私の手を取り、
「アイコさん、俺と、結婚、しよう」
と、ゆっくりと、一言ずつ言う。
強く握られた手を、私はそっと下ろして、
「何を言ってるんですか。冗談は困りますよ」
と、笑顔で言ったけど、
「冗談じゃ、ない」
と、泰二さんは少し怒ったような顔で言う。彼が冗談を言っているわけではないと、言われた私がよく分かっていた。
*
と、ここまで書くと、まるで何かのラブストーリーのようにあなたは思ったかもしれない。でも違うの。私には「ラブ」の要素が一個もないのだし、泰二さんだってラブではないのだ。
もう少しこのままストーリーを進めるとしよう。すぐにわかるから。
*
「俺は色んなものを築き上げてきた」
泰二さんは私から目をそらし、窓の外をぼんやり眺めながら話し始めた。いつも泰二さんのスタイルだ。彼はいつもそうやって、窓の外をぼんやりと眺めている。窓の外には広い庭があり、目の前には大きなコブシの木と、その隣に梅の木がある。梅の花が5分ほど咲いていて、コブシは蕾を膨らませている。
「俺がこんな風になってしまったのは、自業自得だとは思っている。家庭を省みず、妻を泣かせ、子供達のことをろくに構ってやったことはなかった。一緒に遊んだ記憶もほとんどない。それどころか、ちょっとしたことで厳しく躾(しつけ)てしてしまったり、時にそれは半分俺の八つ当たりだったり…。だが、俺のおかげで贅沢な暮らしができているんだろと、そんなことを思っていたので、ちっとも悪いことをしているなんて思ってもみなかった…」
私は泰二さんの衣服を畳みながら、何も言わず話を聞いていた。
「今こうして、数年前に妻に先立たれ、自分も病気になり、命も短いというのに…」
「まだまだ頑張れますよ。そんな弱気なこと言わないでくだ…」
私が言いかけた言葉を遮って、
「気を使わんでもいい。医者からある程度は聞いてるし、自分の体だ、自分が一番わかる。それに次男が弁護士に俺の遺言やら遺産のことなど持ちかけさせたのが何よりだしな」
私は何も言えず、いつもより速いペースで衣服を畳み、すぐに掃除に取り掛かろうとした。話題を変えたかった。
「アイコさんが来てくれてから、この殺風景な部屋が彩り豊かになった。息子たちも、娘も訪ねに来ない。仕事で世話をしてた、と、思ってた連中も誰も来ない。まあ、同期で頑張った連中も、俺と同じように年老いて弱っちまっているか、先にあの世に行ってるかだ」
泰二さんはこちらを向いて、私の手元を見た。私の手が、亡くなった奥さんに似ていると、いつか言っていた。
「あんたのような人は、思えば今までの人生で一度も会わなかったような気がする。アイコさんは人の気持ちをちゃんと考えれる人だ。人の痛みがわかる人だ」
「そんな、私もお仕事ですよ」
私はそれが冗談にも捉えられるし、本心とも捉えられるようなギリギリの線を意識しながら言った。末期癌のお年寄りを傷つけたくはない。
「それはわかっている。だがあんた、まだ小さい子供がいるし、色々と大変じゃないか?」
私は立ち上がり、衣服を棚にしまう。
私はいわゆるシングルマザーというやつだ。小学1年生の娘と、まだ3歳になったばかりの息子と三人暮らし。
夫とは昨年離婚した。どっちが悪いと良いとかという話ではなく、とにかく結婚生活を継続させるのは無理だった。
私は独身時代からずっと介護の仕事をしているが、確かに今は生活は楽ではない。三人で暮らすだけで精一杯。シングルマザーは楽じゃない。
泰二さんは元は聞けば大抵の人が名前を知っているような大会社の会長だ。泰二さんの友人のお家の訪問看護(その方もお金持ちの元政治家だった)をして、そこで大層可愛がられたせいか、泰二さんの家のお手伝いさん兼、介護で毎日来ている。
下の子供が病気がちで、定職が難しく派遣として働いていたけど、ここで毎日努めるようになって半年、収入は良いし、泰二さんは親切で優しい人だったので、こちらの融通をとてもよく聞いてくれるので助かっていた。
「あの世に金は持っていけない。そうだろ?」
「ええ、そうですね」
私はそっけなく答える。
「じゃあ、何が持っていけると思う?」
時々、泰二さんはこういう哲学的なことを話す。
「あの世に、ですか?うーん…」
もちろん、私は答えられない。
「もちろん、それは人は死んだらどこにいくのか?という、人類の永遠の謎だ。だから俺もわからん。だが、この世界で築き上げたものや、所有したものは、一つも持っていけないだろう」
「そうかもしれませんね」
そうかもしれない。そうでないかもしれない。でも、死んだ後も生きてた時の貧富の差や格差がそのまま持ち越されるなんて納得行かないので、「あの世には持っていけない」に、私も一票を投じる。
「では逆に、俺は死んで何を残せるか?」
「それはもう、泰二さんは大きな会社や、その従業員がいて、お子様たち、と言ってもみんな私よりずっと年も上ですけど、それぞれ独立して立派に活躍しているじゃないですか」
「形、はな。俺が創業者として、戸籍上、遺伝学上、父として、形はある。しかし、今はそんなもん何もない。会社だって途中からは実質外資系に持っていかれたようなもんだ。俺の代わりは誰でもよかった。父親と言っても、子供達から愛されても必要とされてもいない。つまり、俺は何も残らない」
私はなんと答えてよいかわからない。
泰二さんは2年前に脳梗塞で倒れられて、その後遺症で体が不自由になった。そこから仕事を完全に引退し、自宅療養。しかしリハビリに精を出すことはなく、ほとんどベッドの上で過ごす。そんな生活が続いていた後に、今から約半年前に癌が見つかった。奥さんに先立たれた男性の5年以上の生存率は10%って聞いたことがあるけど、典型的かもしれない。
癌はすでに全身に広がり、余命3ヶ月、のはずだったのだけど、今もうこうして半年生きている。でも、いつ何が起こるかわからない状態であることに変わりはない。
本来は入院したほうがいいのだけど、泰二さんは絶対病院は嫌だと、自分の財力にものを言わせて、自宅に設備を整え、私の他にも看護師が24時間体制で見守り、3日に一度医師が往診に来る。
ちなみに認知症の初期症状が出ているという話だったはずが、私がおっちょこちょいで、物覚えが悪かったせいか、泰二さんは私に事細かに家のことや、自分の身の回りのことを教えたり話したせいで、認知症の症状もほとんど見られず、むしろ頭もはっきりしている。
看護師さんが言うには、そうやって「刺激」があると、認知症の症状は止まるし、場合によっては改善されるとのこと。
だから私は今まで一度も、泰二さんを認知症だと感じたことはない。
でもだからなのか、たまにこうして難しい事や、弱気な事を言って私を困らせる。
「で、形だけでいいんだ。結婚をしよう」
そして、私をもっと困らせる。
「遺産の半分を、いや、いくらかでいい、あんたにあげたいんだ。子供たちには十分に残しているし、そもそも全員極潰しだ」
泰二さんには三人の子供がいる、というのは知っていたが、詳しく聞いたのは初めてだ。
「長男は俺の名前を使って事業をおこしては失敗させ、何度も不良債権をこちらで処理した。次男は海外で働いていると聞いたかもしれないが、ただの遊び人でラスベガスに入り浸り、危ない連中と付き合いがある。娘は娘で、反対を押切り、ロクでもない男と結婚した。案の定、借金の肩代わりをしたことも何度かある」
3人が3人ともトラブルメーカーな兄弟って、そんなこともあるのかと、私はむしろ関心すらしてしまう。
「俺の不徳が招いたのはわかっている。しかしこれ以上、あいつらに何かを残すことは考えていない。俺が全部甘やかしたからそうなったんだし、今頃、早く俺が死んで、その遺産をどうやって分配するかを手ぐすね引いて待っているだろう。まだ遺言は作ってないから、死ねば兄弟で三等分だからな」
「でも、そんなことできるはずありません」
「できるさ。簡単だ。市役所行って婚姻届もらってハンコ押せばいい」
「そんな、遺産目当てのような…」
「俺があんたにプレゼントしたいと言っているんだ。相続税もなんとかしよう。子供たちにも何も言わせない。信頼できる弁護士がいるし、彼に任せれば…」
**
さあ、あなたならどうする?泰二さんは真面目な人で、頭のいい人だ。どうやら本気で、すでに計画も立ててあることがわかった。
実際、夢のような話だ。子供の頃から「玉の輿」に憧れた。だけど結婚した相手は玉の輿どころか、浮気はするわ、仕事は続かないわ、家にお金を入れないわ…。
もしも私が泰二さんと形だけでも妻になったら?究極の玉の輿だ。この武蔵野市の一等地に豪邸を持ち、ベンツとアウディが車庫に眠っている。元大会社の会長。大半の財産は寄付したと言っていたけど、こんな瀟洒な暮らしができるのだから、まだまだ相当持っているのは間違いない。
しかし、そんなことできるわけない。
なんでって、それは人に道に反するような気がする。それをもらってしまっては、なんだか私は胸を張って生きれないと思う。それくらいできてしまう面の皮の厚い女もいるのかもしれない。でも、私には無理だ。
それに、三人の子供達が許すわけがないだろう。誰かから恨まれて生きるなんて私には耐えられない。
**
「やめてくださいよ〜、無理なものは無理です!」
私はちょっと強い口調でつっぱねた。話を切り上げたかった。
「そうか…」
泰二さんはとても残念そうにしていた。息子がいじけている時と同じような表情だ。時々、この人は子供みたいな顔をする。
いたたまれない気持ちになる。私自身が美味しい話を逃した、ということではなくて、泰二さんを傷つけて、そんな顔をさせてしまったことで、私の胸はチクチク痛む。でも、仕方ないことだ。そして本当に、認知症とか、そういう何かの一端かもしれない。
そんな突然の結婚話が出た日の夜に、泰二さんは突然体調が悪化し、そのまま緊急入院となった。私はそれを、泰二さんのお家のお手伝いさんから「明日からもう来ないでいいです。お約束のお給金は振り込まれます」と朝一番に電話が来て知った。
「どこの病院ですか?」
「それは親族にしかお伝えできません。ご了承ください」
「でも、私はこの半年、泰二さんとは家族のように…」
それは本当だった。私自身、泰二さんの優しい人柄に魅せられていたし、一緒にいて心和む人だった。だから仕事ではなく、個人的に最後のお別れをしたいと思ったのだ。
「残念ですが、ご親族以外は誰も入れてはいけないと、ご長男様のご意向でございまして…」
そう言われては私も引き下がる他なかった。
泰二さんの死を知ったのはその四日後。私が毎日電話をかけて状況を聞いていたので、それで知ることができた。
泰二さんが最後に残せたものはなんなのだろう?本当に残したかったものはなんだったのだろう?いや、そもそも、彼が欲しかったものはなんだったのだろう?
色々と、わかるはずのないことを考えてみた。そして、泰二さんの思いとは裏腹に、子供達に財産は分配される。おそらくその財産の使い道は、泰二さんの望むような使い方はされない。
*
「ママ、誰かいい人いないの?」
娘が最近、私にマセたことを聞く。朝食を食べながら、突然そんな事を言ってきた。
「プロポーズされたんだけどね、ママ、断っちゃったの」
冗談っぽく、娘に話す。嘘は言っていない。
「えー?なんで?かっこいい人じゃなかったの?」
パンケーキからしたたる蜂蜜が、テーブルに溢れる。
「あらあら、ハチミツが垂れてるよ?気をつけて」
「はーい」
泰二さんの家の訪問介護は3ヶ月契約で、まだ2ヶ月契約が残っていたから、自動的にお給料が振り込まれる。そして私の知らないところで「ボーナス」が出ていた。半年分の給料に相当するそれは、我が家にとってとてもありがたかった。
「素敵な人だったんだけどね…、ちょっとタイプじゃなかったかな」
なんて言いながら、3歳の息子に、小さく切ったパンケーキを食べさせる。まだ一人で上手には食べられない。男の子は何かと成長速度も遅いし、病気も多いと、産んでからわかった。男って、元来とても脆い生き物なのかもしれない。
しかし、今こうして、子供達との時間をのんびり過ごせるのは、泰二さんのおかげだ。きっと、これでよかったのだと思う。ここが私の居場所。
私は将来、この子たちに何を残せるのだろう?そして、この子たちとどんな関係を築けるのだろう?
でも、それには私自身がまず、何を残したいのか。どんな関係を築きたいのか。そこをちゃんと、ハッキリとしたほうがいいと思う。
「はい、あーん」
息子がニコニコしながらパンケーキを食べる。
「はい、あーん!」
娘が私の真似をして、まだ口をもくもぐさせている弟に、さらに食べさせようとする。それを見て私は笑った。
終わり
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