頭が良い人ってわがままだよねって話

以下広辞苑より

わがまま:相手や周囲の事情をかえりみず、自分勝手にすること。きまま。ほしいさま。みがって。

言われたい放題である。

そもそも頭が良いとはなんであろう。ここでは知性があると言い換えてみる。

では、知性とは何か。それは、何かを知り、それを元に考え、判断することである。頭が良くなるためには、大前提としてまず多くのことを知っていなければないらしい。

知性的であるため必要な能力は、まず感覚器官を通じた情報の収集、それらの一時あるいは半永久的な保存、加えてそれらの情報を処理し、類似した情報との比較、などキリがないほど挙げられる。

それらを全て挙げていては時間が惜しいので、知性の本質を考える。その本質とは、強欲さである。強欲とは一般に物体を多く所有しようとする行為に対して言われる。しかし、所有とは社会を走らせるための虚構であり、物体を所有したところで、我々の中に取り込むことはできない。物体の所有が外在的行為なのに対して、知識の所有は内在的行為であり虚構ではないのだ。知識は、忘却の影に飲み込まれない限り、誰が何と言おうと私の中に確かに存在するのである。

つまり、何が言いたいのかというと物体的強欲よりも知性的強欲の方がより"私"に近く、強欲であるということである。

知性の本質が強欲であると結論付けると、このようなことを言ってきそうな人が想定できる。AIには欲求はないがあれには確実に知性があるではないかと。

AIに欲求があるかどうかは、この際不問とする。だとしても、この反論は少々ずれている。

スーパーなどにある、ニンジン詰め放題を想像してほしいのだが、袋が破けるギリギリまで詰める様は強欲そのものであろう。この時、実際に袋に詰めるのはその人の手であるが、その手は強欲なのだろうか。強欲なのは、神経を通じて命令を出している脳である。つまりAIとは、外部化した人間の手なのである。自分の手がどのような動きをしようと、手に知性があると思う人はいないだろう。

しかし、現代では、手は我々の知性を超え、ミギー(アニメ寄生獣のキャラ、主人公の右手に寄生している生命体)のようなものが宿った状況になってしまったのだ。

引数も返り値も人間のそれと同等レベルもしくわそれ以上まで来たので、AIも人間と同じく知性があると考えてしまうのは分かる。しかし、肝心な人間の関数については分からない上に、彼らは単語間の相関関係を元に判断しているだけに留まっている。"赤いテニスボールが壁に投げつけられることはありえるか?"という引数を渡されて、赤やテニスボールなどを想像せずとも値を返すことが出来てしまうのである。チューリングの言う知性の定義ではAIに知性があるといえるかもしれないが、人間と同じ意味での知性があるかと言われるとそれはないということになる。

話が大きく逸れてしまった。わがままの定義より、強欲であることはわがままであることに直結する。したがって、頭が良い人はデフォルトだとわがままになる。頭が良い人でもわがままではない人は、頑張って隠しているのであろう。私は頭が悪くてわがままなので分からない。誰か心当たりのある方いませんかー!!


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