トートロジーは語らない

人は正しいことだけを追い求めるきらいがあるが、何の条件もなしに常に正しいと言えることは何かを意味しているようで、はなから何も意味していないのである。我々にできることは、問題を分解し、それぞれの回答に自分の裁量で重み付けをし、分解したものを平均化して語るしかない。

そもそも”正しい”とは何であろうか。正しいとは、ある主体から見て、ある行為が有益になるか無益になるかで語られるものである。数学で言う主体とは、公理系のことである。主体とは何かというと、主体の最小単位は自己であって、自己に内在した家族や自国民、会社の同僚などをまとめたものである。生きるという行為は主体を拡張する行為とも言えるのだ。例えば、いつも目の前でニコニコしている人たち(主に両親)(→自分)→たまに来る顔がしわくちゃな人たち(祖父母)→etc…などのように拡張していく。この主体というものに対して、有益か無益か判断したものが正しいの正体である。

そう言う意味では、人間の行動に真の意味で利他によるものなどないのである。なぜなら、「野良猫のために」、「水すらもまともに飲めない子供達のために」といっても、それを考えているのは自分なのである。結局、人間は利己という檻から指一本出すこともできない。利己的な遺伝子という本で、一見利他的な行動も遺伝子レベルで見れば利己的な行動であると指摘していたが、意識レベルで見ても利他的な行動は全て利己的な行動なのである。ではなぜ利他という言葉があるのかというと、それは”私はあなたのためにやっています。(実際のところは自分のため)あなたもされると嬉しいでしょう?”という一方的な押し付けが、双方的なものになったときに利他という幻想が作り上げられるからである。

有益か無益かで正しいを語るなんてあり得ない、殺人はいつも正しくないだろう!という方のために説明するが、あなたの言ってることは全くもって正しいのである。殺人は、社会という主体から見て無益、むしろ害悪なのである。だから、殺人が正しい、行動するに値すると判断するような主体の持ち主はこの社会から抹殺しなければならないのである。例え道を塞いで渋滞を作った環境活動もどきを撃ち殺したとしても、抹殺しなければならない。実際に抹殺するかしないか判断するのは司法であるが、私はこれは抹殺しなければならない。不倫した国会議員も抹殺しなければならない。

行き過ぎた主体の拡張は私刑を引き起こすのである。本来は正しい、正しくないの判断だけで済んだものを、その正誤に固執し過ぎた結果、無関係の家庭の不倫に口を出してみたり、女性問題の文春砲を喰らった芸能人の芸能界復帰を糾弾してみたりするのであろう。

まだまだ書きたいことがあるし、ちょっと間違えたことを言ったなと思ったが、今日の分の勉強をしていないので早急に結論を出すと、義務教育で論理学をやれということにしておく。さすれば、正しいとはただの公理系の違いに過ぎないことに気づくはずだ。

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