『音と耳から考える──歴史・身体・テクノロジー』から序文「音故知新 音と耳からの出発」細川周平|その1
2021年10月25日に発売する細川周平編著『音と耳から考える──歴史・身体・テクノロジー』から、編者による序文を公開します。本の構成に沿って全10部に分けています。本の詳細はアルテスパブリッシングのサイトをご覧ください。
「音故知新 音と耳からの出発」
「おと(音)」の語を辞書で引くと「物の振動によって生じた音波を、聴覚器官が感じとったもの」とある(『デジタル大辞泉』)。物、振動、音波、聴覚器官、この四つの要件が組み合わさって「音」が生まれ感じられる。その音の科学といえば、まず物理学(物の学)の一分野としての音響学が挙げられ、音の数値化、視覚化のような仕事が連想される。工学の一分野としての音響工学やコンピュータ工学が、音響合成や各種のデバイスに取り組んできたことも周知のことだ。脳と聴覚、その機能不全についての生理学や医学の成果も、いくらでも読むことができる。
こうした理系のアプローチほど目立たないが、人文科学もまた音をないがしろにしてきたわけではない。人はどのように声や道具を用いて音を発し、その音を使ってコミュニケーションを取り、個や集団を表現・維持し、また社会を構築・破壊したのか、音をどう知覚・認識し、言語化し解釈してきたのか、このような問いから人の感覚・活動に深く関わる音の意味や歴史を考えてきた。人に関わる学である以上、「聞こえる」音が、関心の中心にあるが、可聴帯域外の空気の振動も皮膚を通して感じ取られる。物理的現象が認識の対象に変換される。言葉も音の伝播なしには成立しない。音は「音楽」や「アート」となり「雑音」や「爆音」となり、治療的効果や宗教的力を持つ。声は身体を通して作る音の一部で言葉の意味を伝え、美やエロスを表現し、哲学者の思索の題材となる。こうした各分野の知識の集積を今改めて考え直すとどうなるのか。
音と耳から考えると、これまで離れているように見えていた領域が案外近いことがわかる。「聞こえる」という前提の問い直しから「聞こえない」音、「うるさい」音、「聞き違え」までも包括した人の営みや環境に関心が向かう。ある楽器の記譜できない残響や、機械の発する轟音に思索が拡がる。糸電話や吸音材(反響材)から、デジタル音響合成再生にいたる技術とテクノロジーの歴史に興味が向かう。ヨーロッパの知的伝統のなかで育まれてきた「音楽」が、人が作る音のなかで特権的な位置にあることも、民族音楽学とは違った視点から明らかにされている。フランスの感性史は耳の生活誌に多大な貢献を果たしたし(たとえばアラン・コルバン『音の風景』藤原書店、一九九七)、日本の民俗学も断片的ながら蝉や鐘や雷などの音の意味を記録し、独自の耳の文化を考えてきた。
こうした音をめぐる研究を柱に、既存の領域にリンクを張るような企てを英語圏では「音研究sound studies」と呼んでいる。本書はその刺激を一部で受けつつ、国際日本文化研究センターで二〇一七年度から三年間組織した共同研究班「音と聴覚の文化史」、通称〝音耳班〟の報告書である。出版にあたって三〇名ほどのメンバーの論考のほかに、ゲスト・スピーカーや協力者の「エッセイ」を加えて話題を拡げた。編集にあたって、相当に幅広い内容を何とか分類し、全体の整合性を持たせようとつとめた。以下、その方針と各章の概要を述べたい。(その2に続く)
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