いつのまにか大晦日になったので、今年の絶望と希望について、とにかく想いを書き残してみる。

 なんともはや、大晦日になってしまいました。

 これもどう書き出したものかと考えてはや一週間弱…結局、小中学校のときに8月30日に作文の宿題が、大まかに話が決まってるのに出だしが書き始められなくて苦しんでたときから全然変わってない(´;ω;`)

 今年は、私にとって少なくないご縁がある方々や好きだった表現者の方が亡くなられたりした事で、そこまでどうにか踏ん張って耐え忍んできた最後のつっかい棒のようなものが折れてしまったような感じになってしまい、初夏の少し前から本当にエネルギーが尽きていました。そしてまだ尽きている感じがする…特に、野島健太郎さんと小林治さんの訃報は、未だに引きずってしまっています。彼らの作品を聴いたり見たりしてなんとも言われぬ悲しみのような何かを感じながら夜を過ごすことも少なくなかった。

 色んな方々がバタバタと亡くなり、色んな物事がまるで連鎖反応するかのように崩れて、強い立場にいた力が強いものこそが正義だという状況が、そこかしこで起こってきてるのと、後は、悲惨で殺伐として凄惨な事件が表に出るようになって来て…色々と考えがまとまるようなまとまらないような中で、年末最後の文章を書いております(※現在、2021年12月31時の20時22分)。

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今年に起こった色々な悲惨なことの、根っこの部分を考えてみる。

 今年は何があったかと言えば、東京五輪やらコロナ禍やら沢山酷いことがあったわけですが(五輪が酷くない?それはあなたが非常に恵まれてるからそう思うだけだと思います)、それとも根っこの部分でつながってると言うか、たぶんなんでこうなってるのか。と言う部分について書いていこうかと思います。

 何が根本にあるのか?と言う部分で考えると、日本に限らない話ですけど、えらく弱肉強食な社会になったなぁ。と云うことです。要は、目先の利益とかそういう物や信心とか信仰心のような物を大事にしすぎるだけだったらいいのに、先のことをちゃんと考える力がなくて、大事にしたい物事を実現したり眼の前のムカつく相手を排除したり為には手段を選ばない(勿論そこにはどこかの会社に天下りするとか表に出せない形でどこかの会社や偉い人からお金貰ったりするのも含まれますけど)人ばかりが、下手に押しが強かったり声が大きかったりもするもんだからのさばってしまって、そういう人たちばかりが社会の物事とか空気とかそういうものを一方的に決めてしまう。と言う状況こそが、コロナ禍から五輪から、果ては本多平直先生が排除されたり呉座勇一先生が排除されたりしてるという今年の物事の多くに、東京五輪の頃から無差別殺人を行うために、人が容易には逃げられないところで刃物振り回したり放火したりする人達が一気に現れたりするところの根っこにあるんじゃないかと思うんですよ。

弱肉強食が行き届いてしまった、2021年の日本と世界。

 これ自体は、度々書いてるように、1980年代の頭くらいからずーっと続いてきた事やその頃から変えていかれたことの、ある意味終着点のようなものだと思うんです。弱肉強食というより、強い立場にありついた人間や元から強い立場にいた人間にだけ「人間であること」の権利があって、それ以外は、ゴミでしかないし、法律にせよルールにせよ、そういう力のある人たちが力を振り回すためだけに使われて・そこから外れた人たちがなにがしか力を使ったり逆に自分達を守ったり生き延びたりするための法律やルールというのは、単なる文字とか掛け声とかでしかなくなった「きれいごと」という奴ですらない。「きれいごと」とは、法やルールを自分勝手に使いこなせる人たちが自分たちの自分勝手をあたかも正しいことであるかのように言いつくろう為のものでしかなくて、もはや、二十年ほど前の意味での「きれいごと」は「きれいごと」でもなんでもなくなった。

 そういう中で、やっぱり、正義が暴走しやすくなってもいるんだと思うんです。正義と言う物の意味や目的というものがぼやけてしまい、自分たちの目先の利益とつながるものに正義を見出した人たちが手段を選ばず意味も考えずに押し付けることを正義そのものだと、正義の意味を塗り替えてしまったことで、要は、外側から正義や権利が本当に正義や権利なのか?正義や権利だとしても、それで別の人の大事な権利とか何かが奪われてしまうことが問いかけられ突き付けられたとしても、そんなものは不正義で悪でゴミ以下なんだから気に掛ける必要なんてない。気に掛けること自体、差別者や悪人の証拠なんだからそんな事やっちゃいけない。耳を貸すな。と言う誘惑のようなものが幅を利かせるようになってしまった訳ですね。

弱肉強食の世界と、正義の暴走という現象は、実は同じものではないか。

 それ自体は数年前から目立って現れてきて、一つにはコロナ禍の中で起こった米国のBLMが一つの大噴火の始まりで、それが色んな形で色んな国に連鎖してしまった。そういう構図になってはいますけど、実際のところ、そういう真似をしていた人たちがのさばってきていた事に対して見えていなかったのがBLM以降見えるようになってきたことが大きいのだろうとは思います。

 過去には、そういう事は専ら密室で行われて物事を決められたり、表に出ても色々な形で文句を言うことが出来なくされたり・文句を言っても無駄な努力とか社会の足を引っ張る悪人だとか、そういう扱いをうけることが多かった。でも、最近はそれとセットになって、密室で決まったかどうかも怪しいような話をどんどんと表に出して、色んな人を傷つけたり損害を与えたりもしてるのが普通の人たちにも簡単に見えるようになってるのに、そういう真似をする人たちは未だに、密室で物事を決めて他人に決めた結果だけ押し付けてやらせて・問題が起こっても責任なんか取らずに逃げたらいい。って真似を繰り返してる。

 五輪からジェンダー問題、キャンセル・カルチャーから差別問題まで、そういうのだらけになってると言うのと、苦しいから色々な人をまきぞえにして死なば諸共でやってしまおう。的に通り魔をしたりするのが、まるで食い詰めてコンビニでおにぎり一個万引きするのと変わらないかのように起こっていくのとは、実は背中合わせなんじゃないかと思うんです。

 食い詰めたり精神的に追い詰められたり、支えにしてきたものを社会から無理やり否定されて、その上自分が社会的な悪だとか努力をしない怠け者だとか、属性だけで差別者なんだとか原罪を抱えてるのだから悔い改めよとか、そういう形で、マスコミにせよネットのメディアにせよツイッターに限らないSNSにせよ、本来悪い人だと言わなくていいような人ばかりを悪いんだって言うような仕草がはびこりきった結果として、だったら、おにぎり一個万引きしようが人を30人殺そうが「悪」は「悪」で変わりないんだから、どうせだったら多くの人を巻き込んで自分の正義とか怒りとかを叶えちゃいましょう。的な考えがどんどん広まってるように見えるんですよ。

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