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「エレファントカシマシ とスピッツの研究」 (第六回)

初心童子

存在さえも 忘れられて 夕闇みたいな
暗い街に 火をともす ロウソクがあったよ

だから追いかける 君に届くまで
ビギナーのまま 動きつづけるよ
冷たい風を吸い込んで今日も

同じこと叫ぶ 理想家の覚悟 つまずいた後のすり傷の痛み
懲りずに憧れ 練り上げた嘘が いつかは形を持つと信じている
(『ビギナー』:スピッツ アルバム『とげまる』収録)

 リルケ『時禱詩集』に収録されている「修道生活の書」において、リルケはあらゆる存在を覆い隠す暗黒を、それを明るみに照らすよりも愛すると云った(第四回参照)
 これとは対照的にスピッツ「ビギナー」という曲で、草野マサムネ氏は存在が忘れ去られるような夕闇の暗い街を照らすロウソクを見つけられた事が大事であったように歌っている。
 ここに双方の生の捉え方の違いを感じる。
 詩人リルケにとっては、生の把握よりも、それらを全部含めた全一の空間を把握する事に詩人としての目的を感じている。
 これに対して、草野マサムネ氏の歌詞から感じられるのは、全一な空間の把握よりも、まずある一点で照らされ、区切られた生の存在の把握に努めて、尚且つ点在したそれらを通して全一な空間を浮き上がらせようとする意志である。

 リルケのそれは演繹的であり、スピッツのそれは帰納的であるけれども両者の目指しているところは「全一的な空間への到達」という事に変わりは無いように思う。
 そして、両者共に共通する点でもう一つ、「子供の心」「初心」で観るという事を今回取り上げてみたい。

人生を理解しようとはしないがいい、
そのときそれは祝祭のようになる。
日々をただ過ぎゆくにまかせるがいい、
ちょうど子供が歩いて行くとき
風が吹いてくるたびごとに
たくさんの花びらをもらうように。

その花を集めたり蓄えたりしようとは
子供はすこしも思いつかない。
髪にまとまった花びらを子供はそっと払いおとす、
花びらはもっととまっていたそうなのに。
そうして子供は若い美しい年々へと
新しい花を求めて手を伸べていく。
(『リルケ詩集』2020年4月6日第7刷発行 訳:高安国世 発行者:岡本厚 株式会社岩波書店 p17 『初期詩集』より)

 スピッツ、リルケ、共に常に「初心」で事物を観ようとする。
 リルケの詩をもう少し観てみたい。

私はひとびとの言葉を恐れる。
彼らは何でもはっきりと言い切る、
これは犬だ、あれは家だ、
ここが始めだ、あそこが終わりだ、と。

私はまた彼らの心も不安だ、嘲笑をもてあそぶのも。
彼らはこれから起こることも前にあったことも何でも知っている。
どんな山を見ても彼らはもう不思議を感じない、
彼らの庭や地所はそのまま神に接している。

私はいつも警め防がずにはいられない、近寄るな、と。
私は事物がうたうのを聴くのが好きだ。
きみたちは事物にさわる。事物は凝固し沈黙する。
きみらにかかっては事物はみんな死んでしまう。
(『リルケ詩集』2020年4月6日第7刷発行 訳:高安国世 発行者:岡本厚 株式会社岩波書店 p15〜16『初期詩集』より)

 私がまだ小ちゃかった頃、小さな和室に寝かされていて、寝相の悪い私は掛け布団を完全に跳ね除けてしまっていた。朝になってふと目覚めて一時ジタバタして起き上がると、掛け布団と敷布団で何やら「宇宙船」か「探索船」のような形が出来上がっていた。 私はその布団で出来上がった「冒険用の船」に乗って、冒険する事にした。いつもそばにいる人形も連れて。


 すると小さな和室の畳は大海原と化した。太平洋を自分たちだけで横断するヨットの乗員のような気持ちになった。
 今度は地下の世界に入っていって冒険したが、マグマがさらに深いところから噴き上がって来ている。早く地上へ逃げないと、マグマに呑まれたら一巻の終わりである。私は乗組員と協力してすんでのところでマグマに呑まれず地上へ脱出した。
 エイリアンのようなものとも戦った。


 おそらくその日は、休日の土曜か日曜か、子供にとっての日曜日は特別なものである。私は何時間もその乗り物でワクワクと冒険し続けた。
 この頃の私は、リルケに劣らぬ詩人であったような気がしている。

晴れた空だ日曜日 戦車は二人をのせて
川をのぼり峠を経て 幻の森へ行く
きのうの夢で 手に入れた魔法で
蜂になろうよ
このまま淡い記憶の花を探しながら
(『日曜日』:スピッツ アルバム『名前をつけてやる』収録)

 私個人にとっては初期のスピッツが放った、この「日曜日」という曲が収録されている『名前をつけてやる』というアルバムを初めて聴いたとき、快心の思いを強く抱いたのを記憶している。

 教訓めいたことをスピッツに求める気はさらさら無いが、

「初心忘るべからず」

 この事を感覚的に自分に与えてくれる、胸のざわめき、ワクワクするアルバムである。

 「学問」なり「教養」を身につける、という事も自分のワクワクを掘り下げるのに必要な「知識」をもらうけれども、そのもらった「知識」に囚われきりになっては面白くない。肝心なのは、もらったものにどれだけワクワクできる自分が其処にいるかという事だと思っている。

 この初心でワクワクし続ける意志こそ、リルケの詩であり、スピッツのパンクロックだと私は思っている。

 そのような心情で事物を観るとき、あらゆる光景、生き物が、生の輝きを放ってくる。

 だが、ある意味では、リルケもスピッツもそのような事物を傍観する立場に徹しなければならない。そのような事物に直接自分の手で触れたいように触れて理解することはできずにいる。彼らは、理解することよりも心情で感じとることに重きを置く

 これはリルケの生い立ち、スピッツというバンド結成への経緯が影響しているという事もあるのではないかと思う。

 私が思うに、

 エレファントカシマシ はドラマチックなバンドであり、
 スピッツは奇跡的なバンドである。

 スピッツやリルケの視点を育んだ経緯について、これから少し考えてみたい。

                           つづく

 

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