旧山田寺仏頭の国宝指定日 (1967年6月15日)
旧山田寺仏頭の国宝指定日 (1967年6月15日)。
見出し写真は近鉄奈良駅ビルにあるレプリカ。
🔍 文化庁公式ページ
668年で飛鳥時代となっていることに驚き。
普通は、現在所蔵している興福寺でも685年 (白鳳時代) の造立と書いていますが。
Google検索で「仏頭 668年」などと検索しても、それらしい記述が見当たらないし、Twitter検索だと一つも出てこない。
🔍 興福寺公式ページ
「上宮聖徳法王帝説」に
「戊寅(つちのえ・とら)の年の十二月四日、丈六の佛像を鋳る。乙酉(きのと・とり)の年の三月廿五日、佛眼を點ず。山田寺これ也。 」とあり、
「丈六の佛像」が山田寺講堂の薬師如来像 (現在は頭部のみが残る) で、(※1)
「鋳る」 (鋳始め?) の「戊寅」が678年、
「佛眼」を点じた (開眼。完成) 「乙酉」が685年 (※2) というのが定説とされています。
※1
「講堂」というのは、金堂本尊は既に完成していたため [後述] 、鋳造による丈六 (釈迦の身長という一丈六尺=約4.85メートル。坐像の場合はその半分だがそれも「丈六」と呼ぶ。) という大規模な仏像を安置する堂舎は「講堂」以外無いであろうという推測に基づくとのこと。
( 鎌倉前期の「護国寺本 諸寺縁起集」[後述] の講堂の箇所に「薬師丈六鋳仏」とあるのも傍証となっていると考えられます。)
金堂に関しては、「上宮聖徳法王帝説」に「癸卯(みずのと・う)の年 [643年]、金堂を立て云々。」とあります。
金堂の本尊については、鎌倉前期の「護国寺本 諸寺縁起集」に「金堂丈六中尊」の素材については特に書かれておらず、
一方、講堂の箇所では「薬師丈六鋳仏」とあるので、金堂本尊は「金銅仏」とは違うという推定かと思われます。
「薬師如来像」というのは、九条兼実の日記「玉葉」の、山田寺からの興福寺僧兵による本像奪取について記された文治3年(1187) 3月の箇所に
「山田寺 [仁和寺管領在大和国] 金銅丈六薬師三尊像」とあることからの認定と思われます。
※2
🔍 ウィキペディア「乙酉」
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🔍 国立国会図書館デジタルコレクション「玉葉」第3巻
🔍 レファレンス協同データベース ( 📝 「玉葉」に関して。10年以上前のデータですが )
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000018573
📝 「護国寺本 諸寺縁起集」の本文はネットでは見当たりません (20年6月)。
🔍 岩波書店公式ページ 検索結果「上宮聖徳法王帝説」 (岩波文庫 品切れ [20年6月])
https://www.iwanami.co.jp/book/b246375.html
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(6月, 21年6月 更新)