「木を見て森を見ず」、あるいは「世界から零れ落ちる」という才能について
私は自分のことを異常者だと思っています。
少なくとも一般的…からはだいぶ遠い気がしています。
小さい頃…小・中学生ぐらいから、みんなからずれてしまう子でした。
どこに行ってもみんなと同じようなことが考えられない、みんなの考えてることがわからないような子で、強い疎外感と共に生きて来ました。
当時はそれを辛く思っていたのですが、今ではそれもまた才能なのではないかと捉えなおしています。
今日は「世界から零れ落ちる」という才能について。
この文章は、かつて世界から零れ落ちることが苦しかった頃の自分に捧げようと思います。
木を見て森を見ず
突然ですが「木を見て森を見ず」という慣用句ありますよね。
皆さん見てますか、森。
「木を見て森を見ず」という慣用句は「小さいことに心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ」として使われています。
しかしながら、私はどうもずっと違和感を抱いていました。
違和感
私が何に違和感を抱いていたというかと言えば、私が世界のことを認識するとき、「小さいことに心を奪われている」から「世界が見通せない」のではなく、「世界が見通せるほど簡単ではない」から「小さいことに心奪われる」のです。
何かというと、初心者には全貌がわからない、みたいな話で、全体が把握できるほどその”世界”のことを知らないのです。
世界を知らないのは、森の内側にいるから
ところで、木を見て森を見ずという言葉を使うとき、木を見ている人は森の中にいるでしょうか、森の外にいるでしょうか。
私は、彼らが森の中にいるのだと思います。
森の中にいるから、個々の木に目が行ってしまい、世界の全貌が見えないのです。
あるいは、森以外の世界を知らないため、森自体が見えない可能性もあります。森以外の世界を知らなければ、世界の在り方はそうでしかないのです。
だからつまり、森のことも知りません。
森の外側を知る
森の外にはなにがあるでしょうか。
都会があり、荒野があり、海があるかもしれません。
それは森を出てみないとわかりません。
ではどうやったら、森から出ることが出来るのでしょうか。
森を出る
森を出るためには、森以外の概念を啓蒙される、運よく(運悪く)森の外に出るかのどちらかが存在するのだと思います。
1.森以外の概念の啓蒙 (大多数)
基本的に、森以外の概念を誰か(何か)に教えてもらうことが圧倒的大多数と思います。
森の外から来た人(知り合いなり、有識者なり)に教えてもらう場合や、あるいは森の外からの遺物などで(実生活でいうなら本とかでしょうか)。
これは”啓蒙”してもらうパターンです。
2.運よく(運悪く)森の外に出る (ごく少数)
しかし中には、誰にも教えてもらうことなく森を出る人が存在します。
彼らは、ここではないどこかを目指して、あるいは運悪く道や森に迷い、うっかりと森を出てしまうのです。
その理由は様々ですが、自分で"気づいた"パターンです。
森を出た
おめでとう。あなたは森を出ることができました!
そうです。実は世界の全てに木が植わっているわけではないのです。
1にしろ2にしろ、あなたは森以外の世界を知っているので、森が何かを見ることが出来るようになりました。めでたいですね。
運よく(運悪く)森の外に出る= 世界から零れ落ちる
私は、2のパターンを”世界から零れ落ちる”と呼んでいます。
1の人と違って、自力で森の存在に”気づいてしまった”人たちです。
あるいは、意図の有無に関わらず「平均的な世界から逸脱してしまった」 のです。
さて、本人に言わせれば今回気づけたのはたまたまかもしれません。
しかしながら多くの人が森から出ずにその生涯を終えるのだとしたら、理論的なものでも、運でも、何であれ、なにかしらの他の人が持ちえないものをもっていたのではないでしょうか。
それってもう、才能じゃないですか?
森の外が森に何をもたらすか
特に日本は同調圧力が強く、”森の外”は秘匿されています。
であれば、他の人と違う選択を取ることが怖い人も多いのではないでしょうか?
その上で、森の外に出ることはどんな意味を持っているのでしょうか。
森を出ると、森が何だったかのがわかります。
良いところも。悪いところも。
そして、同時に森の外の良いところと悪いところもわかります。
二つを重ね合わせると、よりよい世界がつくっていけるんじゃないでしょうか。
「世界から零れ落ちる」という才能
よりよい世界を作るためには、世界から零れ落ちる人も大事ということです。私たちが存在することにもちゃんと価値があるのです。
それを活かしたり、言語化して伝えられると、その価値は最大限に活用されるでしょう。
終わり
「木を見て森を見ず」についての私の考えが正しい解釈という保証はありませんが、私はこの方がすっきりします。
なので、そういう考えもあるというぐらいに受け止めていただけたら幸いです。
私達にだって、こうやって自分を肯定するチャンスをください。
補足
世の中には自分が異常者であることを自慢げにする人がいますが (それが許されるのは大学生ぐらいまでじゃないでしょうか)、運悪く零れ落ちたこともないのなら異常者を名乗らない方がいいと思います。
大丈夫、「自分が非凡であることを自慢したい」という欲求はどうしようもなく平凡です。
あなたは呆れるほどに平凡なので安心してください。
自分が人と違う生き物であることで、絶望的な現実を叩きつけられた人だけが、異常者を名乗ってください。私もまた平常者に生まれたかった。
いただいたお気持ちは、お茶代や、本題、美術館代など、今後の記事の糧にします!